科学と宗教に互換性はあるか? -その3.1

スペルベルの記事の続きを読むためにEdgeに行ったら面白そうな話題を見つけてしまった。
http://edge.org/3rd_culture/coyne09/coyne09_index.html
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「真の問題」と生物学者ジェリー・コインはニュー・リパブリックの「見ることと信じること」という記事で書いた。その問題とは宗教と科学の間に哲学的な互換性があるかどうかだ。科学の経験主義的な性質は、宗教の啓示的な性質を否定するだろうか?二つの間のギャップは、それらが本質的に相反すると考えなければならないほど深いだろうか?

もはや公立学校でのインテリジェント・デザイン教育の支持を公表したジョージ・ブッシュ大統領も、上院議員のリーダーのビル・フリストも、ジョン・マケインもいない。それはコイン、ドーキンス、デネット、ハリス、ヒッチンズ、マイヤーズのような迷信、超自然、無知に容赦ない反対キャンペーンを行う合理思考の擁護者に動員令が下った瞬間だった。コインが指摘したように、我々のジレンマは、現代の科学的知識に反して、その三つの単語が厳格な原理主義者のテキストだけでなく、もっとも洗練された自由主義神学の一般社会から切り離された神学的おまじないにも適用できることだ。

就任式でオバマ大統領は「科学をあるべき位置に戻す」という目標を発表した。同時に同じスピーチで無宗教者は信仰を持つ者と同じようにこの国の一員であると認めた。信仰の欠如を公言する科学者の増大を考慮して、今いくつかの疑問を発するときではないだろうか?デネットが描写した「信仰を信仰すること」は良いことだろうか?故スティーヴン・ジェイ・グールドが主張したような、宗教と科学が真実に到達するためにそれぞれ独立した方法で発言する「重複することなき教導権」にはメリットがあるだろうか?今まさに、科学と信仰に互換性があるかどうかを率直に議論するときではないだろうか?

しかしコインが指摘したように:

そんなに簡単だったらいいのになあ!実際に宗教的な科学者とダーウィン主義の教会人がいる。しかしこれは二つの姿勢が一人の人間の心の中に存在できるという平凡な意味を除いて、信仰と科学が互換性を持つことを意味しない(それは一部の既婚者が不倫をするからといって、結婚と不倫が互換性を持つというのと同じだ)。聖書を文字通り読むのを止めれば--それがもっとも原初的なユダヤ=キリスト教の感覚だし--緊張がいくらか解消するのも本当だ。それでも緊張は残る。真の問題は宗教と科学の間に哲学的な互換性があるかどうかだ。科学の経験主義的な性質は宗教の啓示的な性質を否定するだろうか?二つの間のギャップは、それらが本質的に相反すると考えなければならないほど深いだろうか?この問題を扱う本が絶え間なく流れていくのは、答えが簡単ではないということを示している。

これから数日に渡って、Edgeはこの問題に発言している中から選ばれた人たちの短い返答を掲載する。
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以下、「見ることと信じること」からの抜粋(これもEdgeより)

…残念なことに、理神論の傾向を持つ一部の神学者は、自分が全ての信者を代弁していると考えている。宗教の複雑な歴史に沈まないようにドーキンスと同僚たちは神の存在に対する巧妙な神学議論の全てに取り組まなかったとこれらの批判者は非難した。特にドーキンスは”中途半端な知識で”『神は妄想である』を書いたと批判された。だがそれは的外れだ。確かに彼は中途半端な知識で本を書いた。しかし、まさに現実の人々が暮らし、実践しているのと同じような視点から宗教を議論した。

多くのリベラルな神学者が宗教と進化が調和すると考える理由は、ほとんどのアメリカ人にとって異世界的であり認識もできないような神学を彼らが支持しているからだ。統計はこの非互換性を支持する。たとえば調査された34カ国の中で信仰の程度と進化の受容の間に強い負の相関を見つけることができる。デンマーク、フランス、日本、それからイギリスはダーウィニズムの高い受容と神への信仰の低さを示す。しかしブルガリア、ラトビア、トルコ、そしてアメリカでは事態が逆だ。アメリカの中では科学者集団は非科学者よりも信心深くない。統計が哲学論争の結論を決定できるということではない。科学の受容が信仰を浸食するか、あるいは信仰を持つことが科学の受容を妨げるかをこの統計が意味しているかどうかも重要ではない(どちらのプロセスも起きているに違いない)。これらが示すのは人々が両方を同時に受け入れるのは簡単ではないということだ。それぞれの世界観の枠組みを考えれば、驚くことではない。

この不和は科学界の恥だ。科学と宗教が完全に調和していると宣言することは個人的、職業的な関心においてのことだ。結局のところ我々は政府の補助金がほしいし、子供たちは創造論ではなくて真の科学に曝したい。宗教的にリベラルな人々は創造論との戦いで重要な同盟者だったし、我々がどう感じているかを宣言して距離をとってしまうのは喜ばしいことではない。だから戦術上の問題としてNASのようなグループは宗教と科学が衝突しないと主張する。だが彼らの主要な証拠--宗教的な科学者の存在--は信仰の欠如を声高に叫ぶ科学者の増加によってほころびている。

現在、我々はダーウィンイヤーを迎えている。ケネス・ミラーとカール・ギバーソンのような本が増えるのは予想できる。神と進化を調停する試みは知的な流れ作業から次々と生み出される。調停は決してうまくいかない。だから流れ作業は決して止まらない。

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実際の返答はまた別のエントリに。

9/22 少し訳を訂正

フランシス・コリンズのNIHディレクター任命について

アメリカ国立衛生研究所の所長にヒトゲノムプロジェクトの前責任者であるフランシス・コリンズが任命された。彼の著書『ゲノムと聖書:科学者』は読んだが彼の有神論的進化観はエイサ・グレイの19世紀後半の議論とそれほど変わらないような感じだ忘却の帰還さんの記事のハリスの指摘を見ると、それよりずいぶん宗教よりかも知れない。

もうしばらく前(07/11)になるが、この話題についてスティーヴン・ピンカーの見解をジェリー・コインがブログで取り上げたので意訳。いつも通り不正確なところ多々あり。

日本でも話題にならないだけで教育や科学行政の上部に宗教的な人が座ることもありそうだなぁ・・・
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今週、いくつかの新聞と科学ジャーナルが無神論の研究者に電話を掛けた。そしてアメリカ国立衛生研究所(NIH)の所長にフランシス・コリンズが任命されたことについて意見を求めた。電話インタビューに代えてスティーヴン・ピンカーはジャーナルに以下のようなメモを書いた(これはウェブに掲載するために若干修正してある)。掲載を許可してくれたスティーヴに感謝。

私はNIHの責任者に任命されたフランシス・コリンズに深刻な不安を抱いている。それが公共の科学の管理者に対する宗教的なリトマス試験紙となるべきだとか、信心深いキリスト教徒は不適任だと考えているわけではない。しかしコリンズのケースは個人の信仰の問題ではなく、公的に宗教を支援することになる。NIHの責任者は単に財務省と分子生物学者の間の金銭的繋がりを管理する官僚であるだけではない(と多くの科学者はその地位を見ている)。その地位は科学の公的な顔だ。国家における科学の大きな権威を持つ。責任者は議会で証言する話者やパネリストを選ぶし、アメリカと世界から多大な尊敬を受ける生医学研究のシンボルだ。それに関してコリンズの弁明的な声明はひどく不安にさせる。

例えば私は科学を単に病気を治すものや便利な道具としてではなく、我々が直面する重要な問題を考える思考法の理想であると見なす。特に迷信やドグマ、個人的なお告げによってではなく理性と証拠によって真実を求めなければならない。

コリンズはハイキングに行ったとき、三位一体とイエスが神の子であるという真実を受け入れたと述べた。まさに、自然が超自然的存在からの個人的なメッセージを含んでいると言う考えは科学的な思考法の真逆だ。それは石器時代的で魔術的で迷信的だ。科学革命の要点はそのような霊的思考を取り除いたと言うことだ。

コリンズは自身の本で、反科学の信念を持つ彼の友人の福音派キリスト教徒をけしかけた。彼は友人たちに「聖書の真実に固執する権利」と「無神論的唯物論の主張は断固として退けなければならないという確信」を話した。確かに彼は若い地球の創造論者やインテリジェントデザイン創造論者ではないのだが。しかし彼は人の知性や道徳、ユダヤ=キリスト教の宗教信念が確実に進化するように神がデザインしたと述べた。それは単なる意見表明とは全く異なるものだ。過去8年間、科学に敵対的だったものにさらなる無数の力を与える。それは理屈上の恐怖ではない。何人かの右翼的な宗教擁護者は(例えばデニス・プライガーはサム・ハリスとの議論で)世俗主義を叩くためにコリンズを利用した。「真剣に神と聖書を論じる著名な科学者がいる。彼に逆らう君は一体何だ?」コリンズがより有名な科学の顔となるなら、こういう例は増えるだろう。

そのうえ、人間の心と脳は生医科学の最前線のひとつだ。最先端の研究は知性、道徳、宗教の信念を進化と神経回路の産物と見なす。これらの機能の背後には神のデザインと目的論があるという考えは鉄器時代と中世のドグマに基づいており、この活発な研究分野とは相容れない。彼が「無神論的唯物論の主張が断固として退けられなければならないと言う確信」を持ち続けるなら、どのように予算配分を統括することになるだろうか?繰り返すが、科学を管理する者に対して無神論のリトマス試験紙が無いことは重要だ。個人的な信条によって公的な地位から退けられるべきではない。しかしコリンズは非常に反科学的な信念を推奨している。研究所の統率と議会や公共における科学企業への協力に、彼の信念がどのような影響を及ぼすか、科学界が彼に問うことは合理的である。最低でも、彼はバイオロゴス財団やその他の同様のグループから距離を取るべきだ。

科学と宗教に互換性はない:シーン・キャロル

ディスカバーマガジンの09/06/23のブログより。

筆者は物理学者シーン・キャロル。科学と宗教には互換性がない。それは科学者が宗教的でいられないとか、一方が常にあらゆる意味で間違っていると言うことを意味しないが、なぜ互換性がないのかを見つめることは重要だ。
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シカゴ大学の進化生物学者ジェリー・コインは『なぜ進化は事実なのか』と題した本を最近出版し、同じタイトルのブログを始めた。彼は科学/宗教論争において足どり強くやってきた。そして”調停主義”--宗教を信じる人がより心地よく進化や科学的アイディアを受容できるように科学支持者の一部が取るレトリカルな戦術--に対して強硬な姿勢を取る。ラッセル・ブラックフォードやその他がコインを支持する一方、クリス・ムーニーやその他はもう一方を支持する。そして大量のブログのポストがとびかった。

実際の調停主義の話題のいくつかを、そしてテンプルトン財団について何をするべきなのかを述べてみたい。しかしその前に一つ疑問がある。科学と宗教は実際に互換性があるか?明らかに、その疑問に対するその人のスタンスは調停主義に対する印象に影響をあたえる。それで私の印象はこうだ。

科学と宗教は互換性がない。しかしそれが何を意味するかの前に、それが何を意味しないかをまず述べないといけない。

まず最初に、科学と宗教は必然的、論理的、あるいはアプリオリに互換性がないことを意味しない。我々は互換性がないことを理由にあらゆる意味で互換性がないと宣言すべきではないが、一部の人はそうしたくなる。確かに科学は合理性と証拠に基づく一方、宗教が信仰に基づく(常に合理性と証拠が欠如しているわけではないが)。しかしそれはただその二つが異なることを意味するだけで、互換性がないことを意味しているわけではない。

飛行機は車とは違う。もしロサンゼルスからサンフランシスコへ行きたいときには、あなたは車か飛行機の(両方ではなく)どちらかを使う。あなたが車に乗り、あなたの友人が飛行機を使った場合、サンフランシスコまで行くのであれば、あなた方の旅は互換性がある。同様に科学と宗教が互換性を持つ別の宇宙を想像することは難しくない。宇宙の機能性についての宗教の主張を科学が定期的に確認するような世界だ。我々は簡単に証拠の収集と仮説検証という優れた科学的方法が、われわれに神の存在やその他の超自然現象も含めた自然の働きの理解を残してくれる世界を思い浮かべることができる(聖トマスアクィナスが生きていれば、現代の宗教的な人たちの多くのように疑うことなくそれに同意しただろう)。しかしそれは我々が生きている世界ではない(それは彼らが一致しない点だ)。

科学と宗教の非互換性は、人が信心深く且つ良い科学者でいられないと言うことを意味しない。そう主張することは愚かだし、もし誰かが「科学と宗教の非互換性」がそう言う意味だと主張したら、それはわら人形叩きだと考えて良いだろう。科学者個人が誤った信念を、たとえそれが科学についてであれ、持つことは全く問題ではない。宇宙の定常モデルを信じている科学者もいるし、HIVがエイズの原因ではないとか、太陽の黒点が気候変動の原因だと考えている科学者もいる。そのような立場を取る科学者がいると言う事実があっても、そのような主張がよい科学的理論になるわけではない。我々は正しいことにも間違っていることにも、議論のどちら側にも(特定の個人の信念にではなく)関心を持たなくてはならない(同様に科学と宗教に互換性があるなら何千もの無宗教の科学者の存在は全く重要でなくなるだろう)。科学と宗教に互換性がない理由は、現実の世界でそれらが別の結論に至るためだ。どんな公正な人にとっても、この非互換性は全く明白だと指摘する価値がある。異なる宗教は非常に異なる主張をするが、最終的に大体同じようなことを述べる。「神は宇宙を6日で創った」とか「イエスは死んだ後で生き返った」とか「モーセは海を割った」とか「魂はカルマに従って生まれ変わる」というように。科学はこう述べる:「それらはどれも事実ではない」。だから互換性がない。

しかし主張の表面的な妥当さは、それが真実であると確信するのに十分ではない。科学は確かに、我々が現実をいったん慎重に見るなら、それが非常に驚くべき物だと我々に教える。そして問題のより繊細な理解は、私たちの面前に広がっているようなものも説明できると私たちに納得させる。したがって互換主義者がどのように科学と宗教を正確に調和させようとしているのか、より注意を払わなくてはならない。

問題はそこだ。相対性理論や量子力学や進化のように直観に反した主張とは異なり(それらは我々にデータとの慎重な対決を要求する)、科学と宗教の互換性とは単にそれらの単語が意味するものについての主張だ。科学と宗教に互換性があると主張する人の好む方法は--本当に可能性がある唯一の方法は--誰もが認める「科学」や「宗教」のどちらか、しばしば両方の定義をひねって変えることだ。

もちろん「宗教」の一つの定義に同意することは難しい(そして「科学」もそうだ)ので、いつ有用さを越えて定義がねじ変えられたかを決めるのは慎重を要する。しかしそれは人間の試みであり、そして自分自身を信心深いと定義する人が実際に行っている習慣や信条を見つめることには意味がある。そしてそうするとき、我々は宗教が自然界について様々な種類の主張をしていることが分かる。イエスは死んだ後生き返った。このようなことを信じている何億もの人がいる。我々がその主張を作り上げたわけではない。宗教は常に自然に関する主張を行った。世界がどう創造されたか?から超自然の介入の重要さまで。そのような主張は宗教にとってしばしば非常に重要だ。もし私の言うことが信じられないならガリレオかジョルダーノ・ブルーノに訊いてみればよい。

ここ数世紀の科学の進歩はますます率直にそれらの誤りを示した。我々は今、自然界について2000年前に知っていたことよりも多くのことを知っている。死者が生き返ることはないと言うのに十分な知識がある。それに対して科学と宗教の互換性を宣言する一つの戦略は、従来理解されていた「宗教」にナイフを入れ、自然界に対する主張をそこから全て取り除くことだ。

その一つがスティーヴン・ジェイ・グールドによって提案された「重複する事なき教導権(NOMA)」だ。彼は「宗教の教導権」を次のように説明する。

この疑問は人生の価値と意味に関する道徳的問題に関わる。どちらも人のあり方とよりひろい解釈に関する。彼らの実り多い議論は異なる教導権の元で進められなければならない。その教導権は科学より遥かに古く(少なくとも公式化された探求としては)、コンセンサスの探求に打ち込んでいる。あるいは少なくとも自然界の物質的ないかなる事実:「である」の調査ではなく、倫理的な「べきである」に関する仮定と基準の説明である。この倫理的議論と意義の探求の教導権は、人文科学と分類されている伝統的な分野を含んでいる。例えば哲学の多くや文学、歴史学などである。しかし人間の社会は通常、この教導権の議論を「宗教」と呼ばれる習慣の中心に据えてきた…。

言い換えると、グールドが「宗教」と言うとき彼が意味していたのは倫理、あるいはおそらく道徳哲学だ。それは確かに我らが科学によって伝えられる自然界の理解と重複していない。しかしそれは歴史的に用いられてきた語として、あるいは今日の信者の大多数によって理解されている語としての「宗教」とは全く異なる。それらの人々は世界を創った超自然的な存在、人間の行いに猛烈に関心を持っており、ときおり奇跡として自然界に介入する神を信じている。繰り返す:私がこれを作ったわけではない。

もちろんあなたを止めるものはない。宗教と言うとき「道徳哲学」や「自然の全て」や「宇宙に驚嘆する感覚」を思い浮かべることができる。あなたは単語をあなたが望むように用いることができる。だがそれはあなたが議論している普通の言葉を話す人々を一貫して誤解させるだけである。

要点は何か?もしあなたが「宗教」という言葉で「倫理」を意味しているのなら、なぜ「倫理」と言わないのか?なぜほとんどの人がはっきりと神や奇跡や超自然と結び付ける意味をその主題と混同させるのか?

スティーヴン・ジェイ・グールドやAAASやその他は倫理と道徳哲学が科学と完全に互換性があるという声高な見解を主張したがる。誰もそれに異議を唱えていない。それを主張するのが興味深いと思える唯一の理由は、人が本当に伝統的な超自然の袋--その袋は空っぽではないが、間違っている--に含めたいと思うかどうかだ。

あなたが「宗教」と呼びたくなるような、しかし明白に超自然的ではない立場--宇宙の壮大さに対する畏怖、人々は互いに良くしなければならないという信念--に出会ったら誘惑に抵抗すべし!不必要な超自然的な含みを他人に伝えるよりも、あなたが実際に信じている物に正直で明白でいるべし。人間同士のコミュニケーションは劇的に改善されるだろうし、世界はより良くなるだろう。

他に好まれるやり方は、恐らく一般的ではないが、「科学」の意味に手を加えることだ。それは通常、非超自然的な無害な言葉売りを越えたいくつかの宗教的主張--「神は存在する」とか「イエスは生き返った」とか--を、科学がそれは真実でないと証明することはできないと指摘することで行われる。厳しく解釈すればそれは全く正しい。しかし科学がどのように働くかの劇的なほどの誤読である。科学は決して何も証明しない。科学は時空が歪曲しているとか、自然選択によって種が進化するとか、観測される宇宙が何億年もの古さを持っているということを証明しない。それは科学の行いではない。いくつかの理由で人々は「神は存在するか?」と言う疑問が他の問題とは完全に異なった科学的推論の基準を持っているかのように扱う。

科学がするのは仮説を提案し、それらを使って予測し、経験的な証拠を用いてそれらの予測を検証することだ。そして科学者はデータと比較して仮説がよりあり得そうかを判断する。トマス・クーンが述べたように、これらの判断を公式化するのは極めて難しい。科学哲学者はそのような判断がどうなされるかについて厳格な理解を持っていない。

しかしそれは厳格さにおいてもっとも厳しいレベルでの話である。ラフな概要では、手順はかなり明確だ。科学者はもちろんデータに合う仮説が好きだ。しかし彼らはその上、他の確立された考えに一致し、明白で、よく定義されており、範囲が広く、とりわけ単純であることが好きだ。仮説がより少ない入力に基づいて多くのことを説明できれば科学者はなおさら幸せだ。この手順は決して何も証明しない。しかし十分うまくいく仮説は代替の仮説よりももっともらしいと判断される。定常宇宙論、ラマルク的進化、フロギストン説は科学的に支持できない。

科学的な言い方をすれば、神の存在は支持できない仮説だ。それは定義不明だ。データとは完全に整合しない。それを加えても複雑な役に立たない説明の層が増えるだけで、理解が増すわけではない。だがそれはアプリオリな結果ではない。神仮説はかつては他の仮説よりも良くデータに合致したし、それを主張する宗教的な人はまだ尊敬を受けている。正確な喩えとして、定常宇宙論を信じている人は間違っていると挙げることができる。50年前定常宇宙論モデルは理に適った仮説だった。同様に、何千年も前、神は理に適った仮説だった。しかし我々の理解と我々のデータはそれ以来莫大なものとなった。そして神仮説は現実的なモデルではない。同じタイプの推論は奇跡やさまざまな創造神話やその他への信念にも用いることができる。

私は多くの思慮深い宗教的な人へ多大な尊敬を払う。何人かは私がこれまで会った中でもっとも知的な人々が含まれる。私が思慮深くて知的な物理学者の友人の数人が時間の矢あるいは量子力学の解釈を間違えていると思うのと全く同じ意味で、私はまさに彼らが間違っていると考える。それは私たちがすでに同意している問題について意見が一致しないということを意味しないし、市民的な議論の範囲で激しく討論した後に一緒に飲みに行けないということも意味しない。しかしこれらの問題は重要だ。彼らは人々の人生に影響を与える。頭にカバーを付けることを強制される女性から、結婚できない同性愛者、日曜にミネソタで車を買えない人々まで。宗教は全く個人の問題ではない。現実の根本的な性質についてのあなたの考えは必然的に他者の振る舞いに影響を与える。そしてその振る舞いは別の他者に影響を与える。だからこそ、それを正すことは重要だ。

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テンプルトン財団に反撃する

またまたコインのブログから。
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アメリカで多くの調停主義者の後ろにいるのはテンプルトン財団だ。この財団は故ジョン・テンプルトンの投資活動のおかげで船べり一杯に現金を積んでいる。彼らは科学と宗教の統一という「大問題」の議論に科学者を誘い込むためにその資金を定期的に使う(あなたがこの議論で「大問題」または「深い問題」という言葉を聞いたら、それが意味しているのは「答えようがない問題」または「意味がない問題」ということだと安心して欲しい。そしてその大きくて深い問題はようするに宗教だと考えていい)。テンプルトンは討論や公表される議論にビッグネームの科学者や世俗的な学者が関わることを好む。というのも彼らの存在は、その他の点では見え透いたうさんくさい事業に本物らしい雰囲気を添えるからだ。

我々の幾人かは反撃を始めた。テンプルトンのベンチャーに参加したり名前を貸すことを拒否している。最近の拒絶はこういうものだった。サイエンスライターのエドウィン・カートリッジは何人かの新唯物論的、原理主義的、好戦的な無神論者にテンプルトン財団のプロジェクトに協力を求めた。これまでにダニエル・デネットとアンソニー・グレーリングが答えた。

題名:唯物論について質問

デネット教授、私は科学ジャーナリストで、テンプルトン財団のプロジェクトの一環として、唯物論を調べています。まず私はその用語がどのような意味で用いられているか(というのも様々な意味があるようなので)、次に唯物論的な視点が我々の周りの世界(特に人間の本性)とどのように一致するか、あるいはしないかを理解したい。そのために私は科学者、哲学者、神学者を含む何人かの異なる専門家と話をしています。あなたが心の哲学と隣接した分野で広く執筆されているので、話を聞くのに良いだろうと思い、電話をしても良いかと考えたのです。もし私と話しても良いとお考えなら都合の良いお時間と電話番号をお教えください。どうぞよろしく。
エドウィン・カートリッジ

デネットの返答:

カートリッジ氏へ
私は唯物論について、それから宗教的なスポークスマンが一辺の根拠も無い主張で混乱させる継続的な試み-その唯物論は意義や倫理において障害となります-について言いたいことを言いました(例えば『Breaking the spell』を見てください)

私は同じ事を二度する必要を感じないし、あなたのインタビューに答えることでそれが私にとって重要な問題だという印象を与えたくありません。それはそうではない。もしあなたが科学者と哲学者と、そして言うなら、この問題の振り付け師の視点を研究しているというなら、私は振り付け師がこの問題についてどんな専門的なことを言えるのか知りたい。あなたが科学者、哲学者、占星術師と言ったらメールに返事もしなかったでしょう。私が返信した唯一の理由は、この問題の専門知識を持つ科学者と哲学者のコートの裾に神学者を結び付けようとするテンプルトン財団の試みに私が不賛成であると伝えるためです。

何年も前に、私は非常に優れた科学者を占星術師や他の新しいイカサマ師と対決させようという会議に出席するという過ちを犯しました。私が自分の狼狽から知ったのは、我々が反対者をどんなに木っ端みじんにしても、聴衆の多くが占星術師への尊敬を増す結果に終わると言うことでした。ある人は私にこう言いました。「あなた方科学者が一生懸命それを拒否しようとしているのは、何かあるからに違いないと想像しました」。そのようなプロジェクトに共謀して、居心地は良いですか?
ダニエル・デネット

A.C.グレーリングはこうだ

カートリッジ氏へ
メッセージをどうもありがとう。私はこれがあなたに直接向けられたものでないと分かってくださることを望みます。私はテンプルトン関連の問題には関わりません。私は宗教を科学と混ぜ合わせることで立派に見せようとするテンプルトン財団のプロジェクトに賛成することができません。これは天文学と占星術、医学研究とおまじないを混ぜ合わせるようなものです。そしてプロジェクトへの協力のために大金を使うことにも不賛成です。テンプルトンはどう見ても、宗教的な見解の宣伝組織です。正直にいえば、彼らが好む古風な迷信を支援するためにお金をつぎ込んで、宗教の疑問を科学の疑問と同じ種類、同じレベルであると見せかける--つまり混乱させて宗教の信用を保とうとする事に視線をとどめるべきではありません。これが私がテンプルトンに関わらない理由です。
アンソニー・グレーリング

それで、誰かこれらの返答を「無作法」と考える人はいるだろうか?カートリッジ氏が受けた宗教と科学に関するテンプルトン=ケンブリッジ・ジャーナリズム・フェローシップの説明は次のようなものだ。彼らの目的の説明に注意して欲しい。

ジョン・テンプルトン財団は2006年に、科学と宗教のダイナミックでクリエイティブな境界を調査する機会を与えるために、出版、放送、オンラインで活動する小集団のフェローシップの提供を開始しました。

クリエイティブな境界だけ?破壊的な境界について書きたい人もいるだろう?

無神論戦争 その2

やはりコインのブログ記事を翻訳。

アンドリュー・ブラウンが、宗教批判や無神論の推奨と科学教育を一緒にしておくと政教分離に抵触すると主張しているのに対して、コインやPZマイヤーズは科学教育なんてどれも宗教信仰と反することを教えるようなものだと反論している。本当はブラウンの記事も訳すべきなのだが面倒なので省略。
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どうやら、調停主義者の首魁アンドリュー・ブラウンは自身のブログで最近のガーディアンの記事よりもバカな議論を進めようとしている。我々無神論者は戦術に非常に慎重でいなければならない。ブラウンによれば、進化を承認することと無神論を同等に扱うならば、進化が学校でもはや教えることができなくなる状況を作るらしい。結局のところ、学校で無神論を教える事は宗教への侮辱に等しく、それはアメリカの学校では違法だ、ということらしい。

[以下抜粋]議論に入るために、無神論者が科学的な世界観を、信仰を持つ人よりも受け入れられるかどうかは知る必要ではない。キリスト教は少なくとも、宇宙でこれまでに起こった最も重要なこととして、少なくとも一つの奇跡を受け入れなければならないようだ。そして科学者がそれを拒絶するのは合理的だ。いずれにせよ、それは科学が世界を説明するよりももっと大きな事をするより大きな神話の全ての部分だ。そのような神話は議論で取り除くことができない。「しかし証拠はどこですか」「どうして科学者は奇跡を信じられますか」などなど。しかし問題はそこだ。新無神論者はそんなことには答えられないと考える。

我々が新無神論者は正しく、本物の誠実な科学者は無神論者以外の何者でもあり得ないと認めると考えてみて欲しい。もしそれが真実なら、科学そのものを教えることは憲法違反である。アメリカの公立学校で無神論を推進するのは宗教を推進するのと同じくらい違法だ。しかしアメリカの法廷はこれまで科学が宗教を否定するかどうか判断するよう求められてこなかった。実際、学校で進化や科学が教えられることの擁護者はその問題を避けるためにどんなことでもした。コインが軽蔑する「調停主義者」は、進化とキリスト教、科学と宗教に互換性があると言うためにあらゆる裁判に引き出された。IDが宗教教義であろうと無かろうと、無神論がそうであろうと無かろうと、もしジェリー・コインやPZやドーキンスや残りのその他が正しいと決定されたら、科学教育はアメリカの公立学校で憲法違反となるだろう。彼らは、要するに、自分自身をぶちこわした。

空想の世界に入り込んだと思うのはこう言うときだ。誰が進化を教えることが意図的に無神論を教える事だと考えるのか?PZマイヤーズとリチャード・ドーキンスを含め、そんな人にはあったことがない(実は二人にあったことがある。ブラウンとその友達マイケル・ルースだ。ルースはかつて私の研究が違法の無神論の推進を含むので、補助金を政府に返すよう書いた。)

実際には、それが素晴らしい問題で、世界のたくさんを説明し、たまたま真実であるから進化を教える。そして、たしかに進化を教えることは宗教を批判的に検証することを勧め、宗教信仰の拒絶に繋がることがあるかも知れない。しかし地質学、物理学、天文学を教えることだってそうだ。実際、おおかたの教育は信仰の拒絶に繋がる(統計はより教育を受けた人ほど宗教的でなくなることを示している)。物理学、天文学を教えること、人々が高等教育を受けることを、それが無神論を推進することになるからと言って我々は心配すべきなのか?法廷がそれに気付くかも知れないといつもビクビクしていなければならないのか?

確かにアメリカの法廷はバカかも知れない。しかしグズな最高裁でさえミスターブラウンよりも合理的だ。ブラウンが本当に言っていることは、いかなる種類の合理的な基準を推奨することさえも、あるいはどんな信念でも証拠が要求だという考えを推奨することも懸念しなければならないと言うことだ。彼は人々の口の中に無神論を突っ込むことと、考えることを教える事(それは付加的に、信仰を損なう影響を与えるかも知れないが)の区別に気付いていないようだ。

間違いなく、ルースとブラウンの両人は無神論をけなすためにどんなレトリカルな戦術でも用いるつもりのようだ。前回のルース/ブラウン組へのポストの最後で言った様に、ヤケクソの気配がある。彼らは科学者・無神論者の真剣な議論に参加するよりも、我々の”無作法な”トーン、そして想定上の、我々の無神論と進化の同一視が導く恐ろしい不測の事態について語る。

私はこれを繰り返す。ブラウンは理解できるはずだ。進化を教えることは、無神論を推奨することではない。科学的事実を推奨しているのだ。そして、どんな科学的事実の推奨でも信仰を壊すような付加的な影響を持つかも知れない。これは不可避だ。科学の流儀-合理性、証拠への依存-は、信仰の流儀-盲信と神のお告げへの依存-と徹底して、両立することなく対立する。どうしようもない。

無神論者の間で戦争勃発

遺伝学者ジェリー・コインのブログWhy evolution is trueの記事より
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タイトル:無神論は創造論の原因か?

時々私は進化に賛成する調停主義者が進化論者を創造論者より大きな敵と見なすことがあると思う。これは今週初めに私にとって明らかとなった。哲学者マイケル・ルースから不愉快なメールを受け取った。彼はふたつの点で私を非難していた。
1.私は哲学者ではないので哲学、宗教、神学について意見を述べる資格を持っていない。
2.私の反宗教活動は進化生物学を推進する大義に不都合だ。

宗教は本当に創造論の根本だ。それは私たちが信仰を握る手をゆるめるまで消えない。ルースのメールから二つの文を引用してみよう。「しかし実際には我々は科学の子供たちの魂のためにアメリカで戦闘中だ。私には誰がよりダメージを受けるのか分からない。あなたやあなたの仲間、あるいは[インテリジェント・デザインの指導者]フィリップジョンソンやその仲間。私には本当に。」

これには笑わせられた。ルースは[インテリジェント・デザイン運動を主導する]ディスカバリー財団のお気に入りの哲学者だ。ID[インテリジェント・デザイン]信者のために一働きしてくれると常に宛てにできるし、彼はこういう。「はいはい、あなたは本当に誤解されてます。私には分かります。トラブルをでっち上げているのは汚い無神論者です」。ルースはIDのプリマドンナ、ウィリアム・デムスキーと本を編集しディスカバリー財団のウェブサイトに投稿した。幸いにも、ほとんどの哲学者と進化学者はルースのことをまじめに受け取っていないが。彼は奇妙なほど信者たちを甘やかしている。彼の本『ダーウィニアンはクリスチャンであり得るか?』でイエスが銀河系内のあらゆる惑星で進化した生命に救済のメッセージを届けるという考えを広めようとした。

ルースはさらにトラブルを引き起こすのが好きだ。最近のインチキはガーディアン紙のオンライン版で[サイエンスライターの]アンドリュー・ブラウンとの記事のコラボだ。(ガーディアンはこの3日で三つの宗教支持、反無神論の記事を掲載した。彼らと何があったんだ?)[ウェブサイトへの]投稿はその尊大さと愚かさにおいて全く信じがたい程だ。ルースはケンタッキー州の創造論博物館を訪問したと報告している。彼はそこで神の啓示を待った。彼はその時、誤解された創造論者が本当はどんなものかを突然理解した。我々、汚い好戦的な無神論者は創造論者の立場になって、彼らがどこから来るのかを理解しようとしない。ブラウンによればルースはメールでこういった:

展示を見ているとき、…私は全てが正しいというクーン的なひらめきをえました。それは単なるひらめきだったが(フロイト派が真実だったとか、共和党が全てにおいて正しいというような)、この展示やパラダイムが人々にとってどのくらいの意味があるかを感じるのは面白い体験だった。

彼の結論は?

これを間違いだとして退けるのは愚かなことです。糞を食べる事は良いことだというのは[それもまた]間違っている。けれど普通ひとは、多くの人が創造論を信じる事を望まないので、反対側にいる我々もアイディアのためだけでなくて心理学のためにも気持ちを理解する必要がある。

[It is silly just to dismiss this stuff as false – that eating turds is good for you is [also] false but generally people don’t want to [whereas] a lot of people believe Creationism so we on the other side need to get a feeling not just for the ideas but for the psychology too.]

マジか?ルース自身、ケネス・ミラーやその他の有神論か有神論に親和的な科学者と、創造論が間違っていると示すためにドーバー裁判や初期の創造論裁判に協力しなかったか?それ[創造論批判]は我々が裁判で勝利するための方法ではなかったのか?多分、ルースの不満は、我々が科学者と同様に腰掛けの心理学者でなければならないということなのだろう。深く人の気持ちが分かるルースが習得したらしい、何かの心理学の。ブラウンも一致する。

それは、私が思うに、新無神論者、あるいは好戦的な無神論者とルースのようなダーウィニアン--無神論だが反宗教的でない--の重要な違いの一つだ。新無神論者は本能的に、創造論者の心理と考えを感じなければならないという考えに尻込みする。彼らにとって重要な点は、信者はバカで狂っていて間違っていると言うことだ。それならなぜ、小さくてあなたよりねじくれた心にこだわって自分の人生を浪費しようとするのか?

ああ、私はブラウンとルースの見解に反論して時間を無駄にしたくはない。というのもPZマイヤーズがPharyngula上で華麗に言ってのけているからだ。これはPZの古典とも言うべき投稿だ。彼の憤りが極致に達した後、雄弁にこう結んでいる。

私は[創造論者に]共感する。というのも彼らは偏狭な青銅器時代の神権政治のイカサマに目を奪われて、現実のスゴさに全く気付いていないからだ。しかし全く共感できない人々もいる。壮大なウソのモニュメントや、反科学、反合理的、究極的には反人間的な団体、子供たちが積極的に教育の機会を奪われている場所、不変の知的な悪に熱心な宮殿を守ろうとする知的な人々、ひどい無神論者が何もかもを壊していると不平を言おうとする人々に全く共感できない。そんな人間は消え去れ

最後は少し強いが、私はPZと不満、怒りを共有する。読者の反応、特にブラウン/ルースへの反応を見てほしい。ブラウンのウケが良くなかったと言えば十分だろう。ブラウンの最後の部分の論理がねじってあると指摘させてほしい。

しかし常に宗教は不合理だ、愚かだ、残虐だ、無知だと「新無神論者が」認定し続けるのは二重に自滅的だ。それは誰かを説得して宗教から手を引かせることにならない。むしろいくらかの全く奇妙な自己欺瞞を推進する。全ての人間の悪い特徴が宗教的なものだったら、私は宗教的ではないから、きっと私は信者の悪い点を全く持たないだろう。私はこれが時々無神論のスタイルの魅力を説明すると思う。

おいおい、一体誰が人間性の悪い面の全てが宗教的なものだとか、無神論者には悪いところがないなんて言ったんだ?それは単なる目くらましだ。それはルースとブラウンが、神と認識論的な信仰の主張のどちらにも十分な証拠が欠如していることに直面するのを拒否していることの反映だ。ルースとブラウンが無神論の実質的な議論に取り組まないことに私はかなりうんざりしている。そうする代わりに彼らは我々のトーンを繰り返し批判する。これはやぶれかぶれから生まれる戦術だ。動物行動学の研究者が転位行動と呼ぶ物だ-例えばその時、怒ったカモメは葉を攻撃する。

ルースのような人は哲学者ダニエル・デネットが言う「信仰への信仰」-教義が間違っていても、社会のためによいので進められなければならないという考え-にさいなまれている。私にはこれがひどく見下したものだと言うことが分かる。我々は多数の無神論者がいるヨーロッパの状況から、宗教を必要とせず、幸せで充実していて道徳的な人生を送っている人がいることを知っている。

更新:
EvolutionBlog でジェイソン・ローゼンハウスが創造論者に取り入ったルース自身の汚い経歴を記している。私はルースがIDの大物ウィリアム・デムスキーと公開トークをしていた事を忘れていたし、ルースがデムスキーの本で「科学への価値ある貢献をした」と表現されていたことを知らなかった。科学へ、だって??

神と科学は混ざらない

ウォール・ストリート・ジャーナルの記事より。執筆者は物理学者ローレンス・クラウス
このセッションはテンプルトン財団の後援によって行われたようだ。
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科学者としての私の流儀は無神論だ。つまり、私が実験を始めるとき、私は神や天使、悪魔が干渉しないと仮定する。だから世界の出来事についても無神論でなければ、私は知的に不誠実だと言うことになるだろう。
-JBS ホールデン(『事実と信仰』,1934)

先週、私はニューヨークシティで行われたワールドサイエンスフェスティバルでいくつかの刺激的なパネルディスカッションに参加する機会に恵まれた。もっともドラマチックな遭遇は「科学、信仰と宗教」と奇妙に題されたパネルで起きた。私は参加する理由がわからないと主催者に話した後、招集された。結局のところ、パネルは科学と占星術、あるいは科学と魔法ではなかった。なぜ科学と宗教なのか?

私は最終的に無神論者とラベルを貼られたパネリストの一人となり、もう一人は哲学者コリン・マッギンだった。反対側には信心深いカトリックの科学者たちがいた。生物学者ケネス・ミラーとバチカンの天文学者Guy Consolmagnoだ。マッギン氏は、たとえ誰もそれを証明できないとしても、サンタクロースが存在しないと仮定することは非常に合理的だと話すところから始めた。同様に、と彼は主張した。同じ論理を神の存在の想定へも適用することができる。

セッションのホストであった、やや宗教的な傾向があるリポーターのビル・ブレイクモアは「私はあなたが合理的な無神論者であると思います」と言いだして私を驚かせた。恐らく我らのホストは、『神は妄想である』のリチャード・ドーキンスや『信仰の終焉』のサム・ハリスのような書籍で成功した後に激しい攻撃の矢面に立たされたいわゆる原理主義的無神論者に応えていたのだろうと思う。これらの科学者は科学が神への信仰と相容れないと主張し、信仰を持つ人々から批判された。これは明白にあやまった主張だと、参加していた二人のカトリック科学者は証言した。また他方で、科学が神は妄想であると示唆するという議論は、科学は打ち破られるか宗教に取り込まれなくてはならない無神論的な敵であるという原理的宗教右派の見解を強めるだけだ、とも。

たまたま、私は様々な州の教育委員会で、進化を「敵としての科学」の見本と考える人々から進化生物学を守ろうとする役割をケネス・ミラーとともに何度も果たした。それらの原理主義者は科学が彼らの信仰を突き崩すというリスクを負うつもりはない。彼らは子供をそれらの知識から隔離しておこうとする。

観衆に対して、私は進化生物学を現実のものだと認めるのに無神論者である必要はないと言い、例として友人のケネスを指した。この言明は私を別の友人、ハリスやドーキンスから引き離すように見える。

だがそれは錯覚である。それは近年の多くの率直な無神論者=科学者=作家への誤認を反映している。ネイチャーは編集記で「無神論絶対主義者」は「文化的にも歴史的にも孤立している」と述べた。しかしこの告発は不公平である。ハリスやドーキンスが現代科学における信仰の実践者の矛盾を指し示すとき、ただ単に彼らは正直なだけだ。進化生物学者であり集団遺伝学の創始者であるJBSホールデンは科学が必然的に無神論的な訓練であると考えた。ホールデンが上手く描写したように、神や天使や悪魔が実験に干渉すると仮定していたら、人は科学的発見のプロセスを継続することなどできない。神をもちだすのは、当たり前のことだが、科学では見当違いだ。

物質界における科学の特筆すべき成功に直面して、多くの、いや実際にはほとんど全ての科学者ははっきりと、ホールデンがしたように振る舞う。すなわち彼らは科学の無神論をより一般的な無神論にも用いる。

ワールドサイエンスフェスティバルでのマッギンの指摘は、全く非の打ち所がないわけではなかったかも知れないが、確かに合理的だ。科学のプロセスは、ただ宇宙を作っただけという緩やかで漠然とした神の概念と互換性はあるかも知れないが、ほとんどの世界的な組織宗教の詳細な教義とは合理的な整合性がない。サムハリスは最近、彼を無神論絶対主義者と呼んだネイチャーに対して返答でこう述べた。「科学とキリスト教の和解は、物理学、化学、生物学、確率的推論に基づいた基本的な理解と、明白に馬鹿げた筏、鉄器時代の信念を調和させようとするようなものだ」

私が二人のカトリック信仰を持つ同僚に向かって、処女懐胎の奇跡はどうしたら基礎生物学と一致するのか尋ねた。私は最終的に、その聖書の記述はたんに誕生の重要さを強調するためだったのだろうと言う回答を得た。二人とも、この紛れもないカトリック神学の中心教義を率直に弁護しようとはしなかった。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で主張されている神の奇跡に関して、科学はただ単に本当に無神論的な世界観と一致しているだけだ。さらにこれらの信仰の各々の信者は、他の全ての信仰の神聖な教義に対しては無神論だ。キリスト教はコーランが宇宙の創造者の不謬の言葉を含むという主張を拒絶する。イスラム教とユダヤ教はイエスの神性を拒絶する。

科学的な合理性は無神論を要求しないが、神の存在に対する議論の基礎としてそれを用いること、そして処女懐胎のような奇跡の主張が自然に対する我々の科学的な理解と互換性がないと結論する事は、決して不合理ではない。

最後に、これらの問題が純粋な学問上の問題ではないと指摘する価値はある。イランにおける現在の危機は、宗教的ドグマにもとづいた世界と理性に基づいた世界の間の致命的な矛盾を明らかにした。おそらく、科学と宗教の非互換性について正直に述べることの最も重要な貢献は、人間の問題では--物質界のその他の部分と同様に--理性がもっとも良いガイドであると全く明らかにできることだろう。

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