”What Darwin Got Wrong”のつづき

ニューサイエンティスト誌のオピニオン欄にフォーダーとピアテリ=パルマーニの記事が載っている。最後に彼らが本を書いた理由を述べている。

自然選択は潜在的な帝国主義的傾向を示した。仮定的な環境における適応度の仮定的な効果をのべることで表現型の後付けの説明を創出することは、進化理論から他の多くの伝統分野、哲学、心理学、人類学、社会学、そして美学と神学にさえ広がった。一部の人々は本気で自然選択は万能酸であると、そしてその分解力に抵抗できるものは何もないと考えたようだ。

しかしこの帝国主義的選択主義を後退させる内在的な証拠は我々をひっぱたく。その信頼性は、適切な生物学が妥当性を与えると言われている自然選択の魅力に依存している。したがって自然選択が生物学から消えれば、他の分野からもその子孫は消えそうだ。これは大変渇望されている結末だ。たいていの場合、これらの子孫は後付けなだけでなく場当たり的で、粗雑で、還元主義的で、科学的であるよりも科学主義的で、恥知らずの自己満足で、データとぴったりはまる運命にあるそれらの詳細を欠いている。だがそのデータは明らかになるかもしれない。自然選択が真実かどうかはに関わらずこれは問題だ。

これが私たちが本を書いた理由だ。

これを読む限りでは、彼らは自然選択が実際に働くかどうかよりもむしろ、生物学以外の場所、人文社会学で適応主義的な説明(もしかしたら自然主義的な説明でさえも)やアプローチが取られることに反対しているように見える。

『ラカンは間違っている』

ラカンは間違っている

ディラン・エヴァンス
桜井直文監訳 冨岡伸一郎訳
2010年2月下旬刊行予定/予価1470円(税込)
という訳書が学樹書院から出るらしい。ミもフタもないタイトルだなあ。
96ページなので相当薄い。売れなさそうだ。著者のウェブサイトにも原著が(単著としては)挙げられていない。

追記:出版元によれば

エヴァンスの「ラカンは間違っている」は、もとラカン派の精神分析を行っていた著者がみずからの経験をもとに書き下ろした論文「ラカンからダーウィンへ」の翻訳、「4年後」の補筆、カウンセラーを務める訳者による解説からなるラカン批判の書です。

ということらしい。ともかく何かおもしろいことはないかとを漁ってみて、詳しい経歴を見つけたので、関係がありそうなところだけ抜粋。

私が理解できなかったちょっとした理由によって、ブエノスアイレスにはニューヨークシティよりも(単位人口当たりで)多くの精神分析家がいる。この分析家の驚くほど多くが「ラカン派」、つまりジャック・ラカンの難解な教えを受け継いでいる。ラカンはエキセントリックなフランスの精神分析家で、1953年に国際精神分析学会を脱会し自分のスクールを作った。ラカンはフロイトの考えの再解釈を提案した。それは最初はソシュール言語学の用語で示されていた。最初に私を彼に引きつけたのは、このラカンの言語学的な要素だった。私はラカン派精神分析に興味を持って、1992年にブエノスアイレスに戻ったとき、ラカン派分析家の精神分析療法に足を踏み入れて、分析家として訓練を受ける事を決めた。また、おもに自分自身のために怪しいアイディアを筋道立てるため、最初の本であるラカン派精神分析入門辞典(An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis)を書き始めた。アイディアは明白になりはじめたが、彼らはますます説得力を失っていった。最初の頃の懐疑にもかかわらず、ラカン派精神分析の訓練を続けるために、そしてカンタベリーのケント大学の人文学科で精神分析のMAを取る勉強のために1994年に英国に戻った。トレーニングと課程が進んだが、しかし私のラカンに対する疑いは、そして精神分析一般に対する疑いは増していった。それは衰えなかった。1995年に開業医に加わって、またサウスロンドンの臨床心理部で外来患者用の精神療法を提供していた英国NHSでパートタイムで働き始めた。結局、精神分析の効果と有効性への疑問は、もはや自分がはっきりとした良心を持つセラピストとして働き続けることができないと認識するほどに大きくなった。

私は全ての臨床の仕事を辞め、その仕事の間に私の心に生まれていた疑問に取り組むためにPhDを取ることに決めた。精神分析には何か維持する価値があるだろうか?代わりに我々が目を向けなければならない精神障害の他の理論には何があるだろうか?

私はバッファローのニューヨーク州立大学で有名なラカン学者と数ヶ月をともに過ごしたが、そこの恐ろしい天候とロンドンスクーオブエコノミクスからの魅力的なオファーで滞在は打ち切られた。LSEの哲学科はPhDのプログラムによって、私にロジックと科学的手法を学ぶ場を与えてくれた。LSEはまさに知的な議論の中心地だった。私は喜びとともにワクワクする空気に飛び込んでいった。そしてすぐさまヘレナ・クローニンの情熱的な姿と出会った。ヘレナは私に進化心理学を教えた。私は魅了された。ここには心に対する科学的に確かなアプローチがあった。フロイトとラカンの狂った考えとは対照的に。ヘレナが組織した公開セミナーのDarwin@LSEシリーズのおかげで、私は世界中の指導的な進化心理学の専門家と出会うことができた。私が最初の「漫画本」である『進化心理学入門』を書いたのはLSEで大学院生の時だった。ラカン派精神分析から進化心理学への知的な旅--ラカン派とダーウィン主義者の両方でまだ驚きを呼ぶ旅--の詳しい解説のため、The Literary Animalの一章のPDFがここにあるからクリックしてみて欲しい。

クローニンの学生だったとは知らなかった。

What Darwin Got Wrongについて

いつものようにwhy evolution is trueより。原文
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ジェリー・フォーダーとマッシモ・ピアテリ=パルマーニの新しい本What Darwin Got Wrongが二日前に出版された。そのテーマは、進化が事実かも知れないが、自然選択は良くても小さな役割しか果たさないということだ。選択は、フォーダーとピアテリ=パルマーニが言うには、二つの基盤から拒否される。それは経験的に支持することができず、哲学的にも擁護できない。著者は二人とも尊敬に値する学者だ。そしてどちらも創造論者ではなく、宗教的でもない。だから我々はこの誤って導き出された進化への批判があらゆる創造論者から歓迎され、宣伝されると予想できそうだ。言い換えればそれは進化生物学にダメージを与えるだろうが、フォーダーがそのことについて懸念するとは私には思えない。だからこそ、私の長いレビューの前に、いくつかのレビューを紹介しておこう。まずひとつめは2/14のボストングローブに載った哲学者マイケル・ルースのものだ。私はルースとの間に見解の相違を持っているし、たぶんずっと持ち続けるだろう。調停主義について、信仰について、科学と宗教の関係に関するあらゆる事について、我々の見解は一致しない。だがルースがWhat Darwin Got Wrongのまともなレビューをしなかったら罵ってやろう。冒頭から彼は要点をついている:

“What Darwin Got Wrong’’は猛烈にむかつく本だ。著名な哲学者ジェリー・フォーダーと共著者の認知科学者マッシモ・ピアテリ=パルマーニはダーウィンの進化理論--自然選択を生物の時間的な変化の主要因とする理論--を切り刻む丸々一冊の本を書いた。君はページごとに一つは、まさに一つずつは、学問分野そのものがどう進化したかを示す、進化学者の研究の議論があることに思い至るだろう。たとえばピーターとローズマリー・グラントのダーウィンフィンチはどうか。もしかするとアリの社会構造に関するE.O.ウィルソンとバート・ヘルドブラーもだ。ひょっとしたらデイヴィッド・レズニックによるトリニダードのグッピーも?

まあ読んでみて欲しい。これはF&PPの見かけ倒しの主張に対する、簡潔だがうまい分析だ。実のところこのレビューのタイトルは『見かけ倒しの起源』(The Origin of the Specious)だ。

一方、哲学者メアリー・ミッジリーのガーディアンのレビューについてはあまりよく言うことができない。ミッジリーは『利己的な遺伝子』の前提を完全に誤解したレビューで悪名高い。彼女はまだ現代生物学を理解できていない。このポストモダン的な分析を見て欲しい。我々が生物学と遺伝に関して近年に学んだこと全てがダーウィニズムに反すると主張している(動詞として「特権」を使用していることから、あなたはすぐにアカデミックな夢の世界にいることがわかるだろう。

この著者はもちろん、この種の古典的な自然選択が起きることを否定していない。しかし彼らは他のあり得る原因を超える特権を選択に与える理由が、現在のところ無いと主張する。ほとんどが破壊的であることが知られている突然変異だけでなく、考えられていたよりも遺伝の素材そのものが遙かに複雑で、未開の可能性の広いレパートリーを提供していることがわかった。見事な範囲において、生物は彼らの未来の変化のための素材を提供する。

驚きだ!大部分の変異は悪いだって!我々は今までそれを知らなかったとでも?[*コメント欄で大部分の変異は中立でしょというツッコミがあり]。彼女が「生物は彼らの未来の変化のための素材を提供する」で何を意味しているのか不明だ。ある意味ではつまらないほど事実だ。生物は変異をたっぷりため込んでいる。それは進化の生の素材だ。しかし私はミッジリーがF&PPの遺伝的同化やエピジェネティクスやモジュラー性に関する長く不可解な議論で煙に巻かれているのではないか、ただ単に彼女は自分が何を語っているのか理解していないだけではないかと疑っている。彼女はその後、進化的変化の説明として、物理や化学法則による個体の自己組織化に訴えはじめる。(こういう話ならもっとたくさん耳を傾けよう)

このほかに、おそらくより興味深いことに、物理と化学の法則は発生プロセスで手を取り合う。物質は明らかにランダムではない特徴的な方法で振る舞う。多くの自然のパターン、たとえば茎から出る芽の配列のようなものは、フィボナッチ数列に従う。そしてフィボナッチ螺旋は螺旋星雲でも観察されている。

もう一回植物のフィボナッチ螺旋の話を聞かされたら石を投げてやろう。もしミッジリー教授が、自然選択の関与なしで「自己組織化」が陸生偶蹄目から進化したクジラの体や、ナナフシの擬態をどうやって生み出したかを説明することができたら、私は感銘を受けるだろう。最後に彼女はF&PPの進化を引き起こす多元的なメカニズムの要求を受け入れる。

今我々がその位置を何が占めるかと問うなら、彼らの答えは、そのような質問は成り立たないと言うことだ。進化にはいかなる中心的なメカニズムは無いし、ある必要もない。多くのメカニズムがあり、それらはおのおの自身の言葉で調査される必要がある[all need to be investigated on their own terms.]。

確かに遺伝的変異を引き起こせる選択以外のプロセスがある。マイオティックドライブと遺伝的浮動がそのうちの二つだ[*コメント欄でマイオティックドライブは遺伝子レベルの自然選択の顕著な例ではないかというツッコミがあり]。しかし自然選択以外に生物の顕著な特徴--動植物のデザインされたかのような特徴、神によって説明されてきたもの--を生み出すことができるプロセスは存在しない。

彼らがデザインを生み出すことができる非ダーウィン主義的プロセスがどのような物かを説明できたら、自然選択への攻撃を含むこのようなダーウィニズムのラディカルな修正に関心を向けることにしよう。モジュラー性やエピジェネティクスや自己組織化やエボデボが象の体の説明を自己完結的に行えたとき、「偏屈なダーウィン主義者(かつてスティーブ・グールドが私に与えた)」の群れから飛びだそう。
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しかし流れを断ち切って、このエントリにトロント大学の生化学者Larry Moranがコメント。

しかしあなたの立場は役に立たない。適応に関して自然選択の役割を深刻に疑う人はどこにもない。それは進化生物学者だけの問題ではない。論点は、全てが適応かどうか、生物の全てが「デザインの兆候」を示すかどうかだ。私にとっては生物の多くがデザインに見えない。あなたがルーブ・ゴールドバーグが良いデザイナーだと考えない限りはね!「偏屈なダーウィン主義者」は「進化」が複数の要因、特に遺伝的浮動を引き合いに出すことで説明されると認めても良い頃ではないか?論争は「適応」の説明ではなく、「進化」の説明なのだから。あなたが二つを混同し続けるなら、論争に貢献できない。それは意図的なものだろうか?適応主義者が分子進化や分子時計を、集団中の変異の分布、ジャンクDNA、インド象とアフリカ象が異なる理由を説明できたとき、私は多元主義(グールドのような)を飛びだそう。

これは見事なストローマン。Moranが戦っているのは生物の全現象が選択と適応で説明できると主張する空想上のドラゴンらしい。もっともこの戦いは30年続いている。他の読者からはツッコミが入っている。
*彼はまだ1979年であるかのように、適応万能主義について講演する場所を探しているんだ。
*自然選択と適応が進化の唯一の要因であると主張する神話的な人物はどこにいるんですか?

しかし対するコインの返答はキレが悪かった…。

うーん、私は進化生物学一般ではなくて、フォーダーとピアテリ=パルマーニについて述べています。進化心理学への批判からあなたが知っているように、私は種の全ての特徴が選択で説明できるとは思っていません!

宗教は理性と科学の脅威か?

2008年4月にガーディアンに載った記事
デネットとロバート・ウィンストンがそれぞれ正反対の立場から宗教は理性と科学の脅威であるかを論じている。ロバート・ウィンストンはイギリスの医学者。信仰はユダヤ教。『人間の本能』という進化心理学風味の著作が邦訳されている。

デネットの主張はおなじみなので冒頭だけ抜粋。
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イエスーダニエル・デネット
もし宗教が理性と科学の進歩にとって最大の脅威でないとしたら、いったい何があるんだ?もしかしたらアルコールやテレビや習慣的なゲームがそうかもしれない。これらの社会悪は--実際には良くも悪くもある--それぞれ私たちの最善の判断を狂わせたり、重要な能力を曇らせたりするけれども、宗教には彼らの誰も自慢できないような特徴がある;宗教は不能にさせるだけでなく、不能さを誇りとするのだ。

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ノーーウィンストン卿
ダニエル・デネットはブレーズ・パスカルと並んでレースに勝つことはなさそうだ。パスカルは有名な賭をおこなった:「神への信仰を明言しても負けることはない--もし神が存在すしなければ失う物はない。もし神が存在すれば死後に報われるだろう」。デネットは神がいないかのように生きることがより良いと主張し、世界をより合理的でよりよい場所にしようと試みる。彼はカテドラルの建設が高コストであり、教会に通うことは時間の莫大な浪費だと指摘する。神がいないのならば無神論者は何も失うものがないーー彼あるいは彼女の足跡は良い行いばかりだろう。そしてもし慈悲深い神がいるなら、不信心を公言していることではなく分別[merits]によって裁かれると考えている。

宗教信念の進化的基盤についての彼のあり得そうな興味深い見解の問題は、信者の信念と感情を真剣に扱えないことのように思える。神が不同意を唱えるのはそれだけだろうか?多くの福音主義的な伝道師のように、他者の真剣な見解に心を開けと繰り返し述べているようだ。それでもデネットの世界では人間は「ブライト」とビリーバーに分けられる--そしてあなたが「ブライト」でなければ、あなたは知性で劣っているか、心を閉ざしているか、怖がりすぎのために彼の見解に同意できないのだ。

いくつかの点で彼はドーキンスと同じ罠にはまる。彼は宗教を知っていると思っているが、どうやらわずかにしか調べていないようだ:彼の論点の多く--たとえばユダヤ教徒の態度やムスリムの習慣--は重大な学究の欠如を示しているようだ。

デネットはドーキンスのように、穏健な宗教的な人々が、彼らの伝統における過激主義者の行き過ぎに対して何もしなかったという「事実」によって面目を失う。彼は誰を過激派と定義するだろうか?もし私がユダヤ教として全く不合理な食物律法[dietary laws]や、珍妙にも土曜日にはバス旅行をしないという決意をすれば、私は過激者ということになるだろうか?さらに進んでキッパをかぶり、私が住むロンドンの一部を囲むように結界[eruv]を作ったら、それは受け入れがたい行き過ぎだろうか?あるいは彼は分別のある宗教的なあらゆるユダヤ人が非難するような、危険な暴力に反対しているのだろうか?

宗教は人間の意識に組み込まれているし、凝集力[cohesive force]があることを示す豊富な証拠がある。我々の先史時代の祖先の生き残りは別として、現代において、超越的な意志が絶望的な状況で人間を奮い立たせた強固な例が存在する。ヴィクトール・フランクルは極限の困難の真っ最中に、アウシュビッツの人間性剥奪と絶望の中で(彼の評価では)ある種の精神性を持つ者だけ(必ずしも神への信仰というわけではないが)がキャンプの苦難をどのように生き延びたかを観察した。

デネットは科学が「真理」であると思っているようだ。私の優れた科学者の同僚の多くのように、彼は科学はある種の確信[a kind of certainty]であるという考えを広める。たとえば彼の本『Breaking the spell』で彼はミームについての見解を支持するEva Jablonkaを引用している。彼はJablonkaがドーキンスの進化への見解ーーデネットが明らかに情熱的に支持する見解ーーのまさに本質に疑問を呈していることを忘れている。

もしかすると彼はヨブ記を読み返したいと思うかもしれない。ほとんどがミステリアスでスピリチュアルなこの本を通してヨブは気長にも苦しみ続けるが、神の正義に対する彼の信仰は変わらない。しかし最後には憤慨を超えて、神の罰の不合理さに毒づく。物語のまさに最後で「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか?」。神は、彼が地球の基盤を作ったときに、ヨブがどこにいたかを尋ねる?我々はどこからやってきたか、どこへ行くのか、また我々の惑星の向こうに何があるのかを理解しているだろうか?

問題は、科学者が現在、あまりにも頻繁にこれらの問題、生命の神秘への答えをつかんでいると考えることだ。しかし奇妙にも、自然を探求するために科学を使えば使うほど、理解できず、説明が困難なことを発見する。現実には宗教と科学はどちらも人間の疑念[uncertainty]の表れだ。もしかするとパラドックスは、科学においてであれ宗教であれ、その確信が危険だということかもしれない。デネットの比較的緩やかな確信の危険はそれが我々の社会の二極化を促進することだ。両側の立場に柔軟性がなければ確信はまちがいなく理性と、そして科学への脅威となる。

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ウィンストンの反論は全体的に不明瞭でほのめかしが多くわかりにくいのだが、
1.宗教の進化的基盤の説明はその通りかもしれないが、「信者の気持ち」を扱えない。デネットのような宗教批判者は信仰を持つ人々を見下している。宗教批判者は宗教(あるいは信者)のことを「本当に」は理解していない。
→論点そのものではなく議論姿勢を批判。宗教批判者は宗教(あるいはビリーバーの気持ち)を本当に理解していないのだという反論。この二つはニセ科学批判と批判批判の文脈でもおなじみ。

2.宗教過激派と穏健な信者の境界は曖昧だ
→ドーキンスやデネットの議論では、穏健な宗教も過激な宗教も、それを支える信仰システムの論理は同じなのだから、穏健な宗教は過激宗教の温床になっていると主張されている。ウィンストンは意図を明確にしていないが、まさか「境界が曖昧だからどちらも批判できない/すべきではない」とは主張しないだろうから、穏健派と過激派を一緒くたに非難するなと言いたいのかもしれない。

3.宗教は人の意識に組み込まれている
→宗教信念は生得的であるとしても、そこからそれが「よいもの」だとは限らない。自然主義的誤謬に足を突っ込むことになる。でもこの文脈ではそう仄めかしているようにしか解釈できない。

4.宗教あるいは何らかの超越的な意志は困難を乗り越える力を与える
→ウィンストン自身も必ずしもそれが宗教でなければならないとは述べていない。また「何らかの強い信念」と「アウュシュビッツでの生存」の間に相関が見られたとしても、信念が生存の原因だとは限らない。もし信念が人に何かの力を与えるのが事実だとしても、それは常によい結果に結びつくとは限らない。自爆テロへの「勇気」を与えているのも同じ種類の信念かもしれない。

5.我々はまだこの世界をよく理解していない。科学者が世界の全てを説明可能だと見なすのは行き過ぎである。科学的探求は理解不可能なこと、説明困難なことを増やす。
→公共のあいだでの科学者への不信を強めないために科学者は謙虚であれと述べているのか、それとも「科学で説明できないことは神のせい」を仄めかしているのか不明。
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一般大衆へ宗教に理解ある科学者もいるのだとアピールするために述べているのか、それとも本心を語っているのかで異なる解釈ができる、かなり曖昧な反論になっている。ただどれもすでに出尽くしている主張なので、いまいち切れ味の良さは感じられない。