科学と宗教に互換性はあるか? -その3.3

ダニエル・デネット

ジェリー・コインは宗教が平和的に科学の大部分と、特に進化生物学と共存できると多くの人々が自分自身を説得するのをうまく分析した。彼はこの挑戦がどれだけ絶望的か述べた。問題は残る:なぜこの衝動はそんなに強いのか?キャリアを科学に捧げた人たちでもそうだ。私は神の信仰への信仰の理由を半ダース以上挙げることができる。そして一部の人にとって疑いなくそれは付加的[additive]だ。排他的ではない。適当な順で並べてみよう。さもしいものから役立たず、そしてまとも[noble-if-misguided]なものまで様々だ。

1.サンクコストの誤り:
「私はこの立場に人生の50年もつぎ込んだ。自分の過ちを認めるのは苦しく、きまりが悪い。自分に公平に言えば、分別があるには若すぎる頃に罠にはめられたのだ。そして面目を保ちながら撤退する戦略を見つけることができなかった。」

2.慎重[prudence]がゆえの誤り
「これらの問題について求められた結論を出すのを避けるために、あいまいなの魔法を唱えることができる。結局のところ、それは誤っているかもしれないし、もしかしたら誰かにちょっと害を与えたかもしれない。でも痛くもない腹を探らないでくれ!」

3.芸術のための宗教
「世界の宗教の素晴らしい音楽、文学、芸術を保存する効率の良い唯一の方法は、全ての人々に生きた博物館を毎週の献金によって支えるよう奨めることだ。」

4.ママはどう思うだろう?
「私が愛する人々は、それに心情的に私を頼りにしている人は、私の変節を知ったら打ちのめされてしまうだろう。私はこの罪のない嘘を墓まで持って行くつもりだ。少なくとも両親がとどこおりなく埋葬され、子供と愛する人が私の告白を受け入れられる明白な兆候を示すまでは黙っていよう。」

5.宗教的美容体操
「それは私を謙虚にさせてくれるし、私が善い行いをする助けとなるような道徳的な内省の望ましい習慣を、”考えることなしに”促進してくれる。それは道徳的に自分を健全なままにしておくための自己浄化の手段だ。」

6.道徳的な混沌を避けるべし
「私自身はどのように生きるべきかを神に教えてもらう必要はないが、一部の人は本当に必要としている。宗教信仰はもしそれがなければ非難に値する振る舞いをする人々を恐れさせる。」

7.波風を立てるな
「私はもっと現実的な論争をしたい。なんのために気分を害して同盟者を捨て、敵を作り、強力な友人と同僚の支持を損なうのか?」

8.ダンボの魔法のはね
「宗教とは道徳的な人工器だ。それは善くありたいと願うもののそのために必要な不屈の精神を持たない人の決断と勇気を強化する。私が信仰を捨てたら、彼らが本当に依存している世界の一面が消滅する原因となってしまう。私には彼らの松葉杖を奪う権利がない。」

これらのうち二つか三つの組み合わせは、明らかに、非常に聡明な人々に非常にぎこちない主張を守るよう働きかけるのに十分だ。彼らはそのように曖昧で非論理的な主張を、彼らの科学の中では--哲学者の場合なら倫理学や認識論や形而上学の分析的な研究で--決して容認しないだろう。彼らは信者が崇拝の対象を、最初の神聖な生命工学者から神聖な偶然の小突き屋[divine nudger of randomness]、そして全知の立法者、それから(人間的ではないが、まだどうにか慈悲深い)生命の基盤へとどうやって変えたかに気づかないでいることができる。この滑稽な後退に気づかないでいるだけでなく、彼らはそれを実行した神学者の深い洗練さに拍手喝采さえする(私には”生命の基盤”が何であるかのアイディアが何もないし、思うにそのために無神論者である必要はないだろう。たぶん、自然選択による進化のプロセスはまさに神だ。さて、進化と宗教を一致させる方法があるぞ!)

神の信仰への信仰のそれぞれの理由は、ある程度は弁護できるものだ。しかし伝統に盲従することの副作用はよく考慮する必要がある。まず対話を阻害する組織的な偽善がある。より重要なのは「敬意」を悪用する人々への我々のもろさだ。[+with which we are supposed to respond to their indulgences.] 我々は神への信仰を明言することに固執する人の良い心がけを尊重し続けることができる。しかし彼らが幻想を抱き続けるために用いる議論を、我々が偽って尊重しますと言うのを止めるならば、それは彼らにとっても善いことだろう。

リー・スモーリン(物理学者)

コインの疑問に対する答えはイエスだ。その理由について、一神教の信者と科学者の間を取り持ついかなる試みも問題含みの非対称性によって困惑させられることを考えてみてほしい。自然選択を信じない人々を--薬の効果はその前提に基づいて開発されているのだが--科学者が否定することはない。

しかしこの寛大さは報いられることはない。啓示的な宗教が示さなければならない最大のプレゼントは天国への約束だ。彼らが説教している兄弟愛を実践するなら、信仰がどうであれみんなに約束されるはずではないのか。宗教の訴えの本質は強調ではなく実質的に強制だ:我々のグループに加わらなければ永遠の命の望みはないぞ!その前提を通して熟慮できないほど若い子供たちに向けられるこのやり方の恥ずべき点は、啓示宗教の議論の本質的的な不誠実さのもう一つの証拠だ。オープンで自由な社会の基礎的な倫理は、誰にも開かれている証拠に基づく熟慮された議論によって
、あなたが信じていることを守る準備ができていることだ。そして意志決定するのに証拠が十分でないという疑問の多様な見解への寛容性だ。

証明不可能な主張へ固執することに与えられる報酬として、神話上の未来に最高のプレゼントを約束する宗教信仰はこの倫理と矛盾する。実際のところ、宗教が教える寛大さと非差別を科学は実践している。究極的には人間は強制されたり操られるよりも説得される方を好むので、勝利を収めるだろう。しかし多くの人はまだ世界の存在とその美しさへの驚嘆を共有し、同時に人生の苦しみに慰めを与えるコミュニティの必要性を感じている。

この理由から、科学やこれらの倫理と調和する宗教のリベラルな形が存在するという事実は、コインが示すように軽視[denigrated]されることはない。多くの元信者はスピノザやアインシュタインが示したような汎神論やリベラルな調停を受け入れて一神教を捨てた。まさに科学と比較して天のお告げの論拠の弱さのために。それでもまだコミュニティの一部であることを望むのだ。我々科学者は幸運にも地球上でもっとも包括的で多様性のあるコミュニティの一員であり、我々が築くことを渇望する民主主義の倫理を彼らが拒絶しない限り、価値観と望みを共有する人々によってコミュニティに縛られている他の人々が必要としていることを理解するべきである。

ジョージ・ダイソン(歴史家)

科学と宗教は根付いている。オバマ大統領が政府の中で科学をあるべき位置に戻すと発表したとき、宗教もあるべき位置に--教会に--戻すことを暗示している。リック・ウォレンは科学教育やES細胞研究への意見のためでなく、祈りを捧げるためにワシントンに招かれた。実験化学の先駆者で王立教会の創設者ロバート・ボイルは(1691年に)”Christian virtuoso”で現在の流れを始めるを助けた:実験哲学に没頭することによって人を明らかにする[shewing a man]ことは善いキリスト教徒でいることの妨げとなるよりもむしろ助けとなる…[+to which are Subjoyn’d, A Discourse about the Distinction, that represents some Things as Above Reason, but not Contrary to Reason.”]

ボイルのはいまだに科学の経験的な性質が信仰の啓示的な性質を否定するかどうかの疑問への最高の答えだ。科学と宗教を調和させようとする本が絶え間なく組み立てラインから流れてくるのはそれを進めようとしたボイルと彼の後進の失敗の証拠ではなく、テンプルトン財団の成功の証拠だ。

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部分的な訳し抜けが増えてきたなあ。ジョージ・ダイソンが突然テンプルトンを持ち出すのはなぜだろう。親父がテンプルトンから賞をもらっているから?

The Greatest Show on Earth

9月にイギリスで出たリチャード・ドーキンスの新著” The Greatest Show on Earth”の第一章からの抜粋。TIME ONLINEに掲載されたもの。
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あなたが古代世界への情熱を伝えたいと願っているローマ史とラテン語の教師だと想像してみてほしい。オウィディウスの哀歌やホラティウスの頌歌、キケロの雄弁さで示されたラテン文法の力強い秩序、ポエニ戦争の戦略の精緻さ、ユリウス・カエサルの手腕、そして後の皇帝の享楽的な豪奢を。それはたいへんな仕事だし、時間、集中と献身を必要とする。

そのうちあなたの貴重な時間が無学な人(ignoramuses:ラテン学者としてignoramiと言わないだけの分別があるでしょう)の一団のわめき立てによってしきりに奪われ、クラスの注意がそらされることにあなたは気づく。彼らは強力な政治的支援、そして特に財政支援を受けて、あなたの生徒をローマがまったく存在しなかったと飽くことなく説き伏せようとする。ローマ帝国は存在しなかった。世界は丸ごと現在の記憶を持ったまま作られた。スペイン語、イタリア語、フランス語、ポルトガル語、カタロニア語、オック語、ロマンシュ語:これらの言語とその方言は突然期せずしてそれぞれ切り離された存在となり、ラテン語のような前身と何の関連もなくなる。

あなたはすべての関心をすばらしい古典研究と教育の仕事に捧げる代わりに、ローマ人は存在したという主題を守るために時間とエネルギーを注ぐよう強いられる:そんなことと闘うのにそんなにも忙しくなければとあなたに涙を流させるような、無知の偏見の博覧会からの防衛に。

このラテン教師の空想があまりにあり得ないと思うなら、もっと現実的な例がここにある。より近代の歴史の教師だと想像してほしい。組織だった、資金豊富な、強力なホロコースト否定論の政治グループによって、あなたの20世紀ヨーロッパの授業がボイコットされたり妨害されたり混乱させられたりするところを。架空のローマ否定論と違いホロコースト否定論者は実際に存在する。彼らは声高で、表面上はもっともらしく、問題に精通していると見せかけるのに長けている。彼らは少なくとも一つの強力な現代の国家の大統領によって支持されているし、その中にはローマカトリック教会の聖職者の一人も含まれている。想像してみてほしい。ヨーロッパ史の教師として「論争を教えろ」という挑発的な要求に絶えず直面することを。それからホロコーストは存在せず、それはシオニストのでっち上げ屋によって作られたという「代替理論」に「平等な時間」を与えるよう要求されることを。

ファッショナブルな相対主義の知識人は絶対の真実はないという主張に相づちを打つ:ホロコーストが起きたかどうかは個人の信念の問題だ。すべての見解は等しく妥当で、等しく「尊重」されなければならない。多くの科学教師の立場は今日、いっそう悲惨だ。彼らが生物学の中心的でガイドとなる原理を教えようとするとき、率直に歴史的な文脈の中に生命界を置こうとするとき--それはつまり進化だが--、彼らが生命の性質そのものを調査し説明するとき、彼らは悩まされ、妨害され、煩わされ、脅しつけられ、仕事を失う恐れさえある。少なくとも彼らの時間はことあるごとに無駄になる。親からの脅迫的な手紙を受け取り、教化された子供たちのあざけりの薄笑いと腕組みに耐えることになる。彼らは「進化」という語を組織的に消されたか、「時間をかけた変化」を削除された州公認の教科書を配られる。かつて我々はこの種の出来事を奇妙なアメリカ的現象だと笑いそうになった。

イギリスとヨーロッパの教師は今、同じ問題に立ち向かっている。部分的にはアメリカの影響のため、しかしかなりの部分は教室で伸張するイスラム教のために--「文化多元主義」への公的なコミットメントと、人種主義者と考えられることへの恐れによってそそのかされて。

しばしば、正しくも、高位の聖職者と神学者は進化を問題と見なしておらずこの問題に関して積極的に科学者を支援すると言われる。これは多くの場合真実だ。私もオックスフォード司教で現在のハリス卿との二度の喜ばしい協力の経験によって知っている。2004年に私たちはサンデー・タイムスに共著記事を書いた。その結語はこのようなものだった:「今日では議論は何もない。進化は事実であり、キリスト教徒の視点からは神の偉大な行いの一つである。」最後の文章はリチャード・ハリスによって書かれたが、私たちは残りのすべての部分に同意した。2年前にはハリス司教と私は首相、トニー・ブレアに共同で手紙を書いた。

[手紙では著名な科学者と7人の司教を含む聖職者がエマニュエルシティ・テクノロジーカレッジにおける進化の教育への懸念と「信仰の位置」に対して警報を表明した] ハリス司教と私は急いでこの手紙を組織した。覚えている限り手紙の署名者は私たちのアプローチに100%同意した。意見の不一致は科学者からも聖職者からもなかった。カンタベリー大司教は進化を問題と見なしていなかったし、法王も(古人類学上の転機に人間の魂が注入されたという怪しいぐらつきを加えたが)、教育ある聖職者と神学教授もそうだ。

The Greatest Show on Earthは進化が事実であることの議論の余地のない証拠にかんする本だ。それは反宗教を意図した本ではない。私はすでにそれを[”神は妄想である”で]した。これは別のTシャツで、もう一度元のTシャツを着る場所ではない[it’s another T-shirt, this is not the place to wear it again.]。

進化の証拠に注意を払った聖職者と神学者は反対をあきらめた。一部はしぶしぶに、リチャード・ハリスのような一部は熱心に、しかし不幸な無学な者以外のすべての人は進化の事実を受け入れるよう要求された。彼らは神がプロセスの始まりに腕をふるったと考えるかもしれないが、おそらくそれからのプロセスの進展には関与しなかった。彼らはたぶん神が最初に宇宙のクランクを回し始めたと考えるだろう。そして最終的に我々が役割を果たすことになるちょっとした深遠な目的のために、調和した自然法則と物理定数の一揃えによって誕生の儀式を挙げたと考えるだろう。

しかし場合によっては不承不承に、そのほかは喜んで、思慮深く理性的な聖職者と女性は進化の証拠を受け入れる。我々がしてはならないことは悦に入ってそれを当然だと思うことだ。司教と教養ある聖職者がそれを受け入れるから、会衆もまねるのだから。

ああ、ほんとうに世論調査にはたくさんの反対の証拠がある。40パーセント以上のアメリカ人は人が他の動物から進化したことを否定し、そして我々が--それに他のすべての生命も--1万年以内に神によって作られたと考えている。この割合は英国ではまだそれほど高くないが、それでも気がかりになるほどには大きい。それは科学者の懸念と同じくらい教会にとっても問題であるはずだ。

この本は必要だ。進化を否定する人のことを、「歴史否定者」と呼んでいる。彼らは世界の年齢が数十億年ではなく数千年だと信じ、人は恐竜と歩いたと信じている。繰り返すが、彼らはアメリカの人口の40パーセント以上を構成している。この数字はいくつかの国ではより高く、他ではより低いが、40%はちょうどいい平均だろう。私は時々歴史否定者を40パーセンターと呼ぶ。

聡明な聖職者と神学者に戻ると、彼らが遺憾に感じている反科学的ナンセンスとの戦いにもう少し力をつぎ込んだらすばらしいのだが。進化は事実でありアダムとイブは存在しなかったと認める一方で、あまりに多くの伝道師が軽率に説教壇に立ち、道徳やアダムとイブの神学上の見解を演説する。もちろんアダムとイブが実際には存在していなかったと一度でも言うことはない!

もし不服を申し立てれば、彼らは純粋に「原罪」や無垢の価値[virtues of innocence]に関する「シンボリックな」意味だったのだと抗弁する。もちろん言葉を文字通り受け取るほど愚かではない、と見下したように付け加えるかもしれない。しかし聴衆はそれを知っているだろうか?会衆席にいる人や、祈りのマットに座っている人は、聖書のどの断片が文字通りで、どこがシンボリックだと考えるのだろうか?教育を受けていない信者が理解できるほどそれは簡単なのだろうか?かなりの場合答えは明らかにノーだ。混乱が生じるのも無理はない。

司教の皆さん、それについて考えてみてほしい。牧師殿、慎重になってほしい。あなたがたはダイナマイトで遊んでいるのだ。爆発するのを待っている誤解をもてあそんでいるのだ。もし対処しなければ起きるべくして起きるとさえ言えるかもしれない。公衆の面前で話すとき、是は是と、非は非となすように大きな注意を払うべきではないのか?罪に陥らぬため、すでにとても広く好まれている誤解に立ち向かい科学者と科学教師に熱心で積極的な支持を与えるべきではないのか?歴史否定者は私が捕まえようとしているうちの一人だ。しかし、多分より重要なことに、私は歴史否定論者ではなくて、少しは理解している人や議論をするのに十分な準備ができていない人を武装させることを望んでいる。

進化は事実だ。筋の通った疑問を越えて、深刻な疑問を越えて、情報に基づく健全な知性的な疑問を越えて、疑う余地無く、進化は事実だ。進化の証拠は少なくともホロコーストの証拠と同じくらい(ホロコーストには目撃者がいることを考慮してさえも)強力だ。我々がチンパンジーのいとこであり、サルとは若干遠いいとこであり、ツチブタやマナティーとはもう少し遠いいとこで、バナナや蕪はさらにもう少し遠いいとこで、それから…というのは明白な事実だ。
これは事実である必要はなかった。それは自明的な、トートロジー的な、あるいは言うまでもないような真実ではなかった。そして大部分の人が、教育を受けた人たちさえも、事実ではないと考えたときさえあった。進化は事実である必要はなかった、しかしそれは事実だ。進化を支持する証拠があふれ出ているから私たちはそう知っている。進化は事実で、私の本はそれを例示している。標準的な科学者でそれを否定する者はいないし、公平な読者はそれを疑う本を閉じはしないだろう[no unbiased reader will close the book doubting it.]。

なぜ、それなら私たちは「ダーウィンの進化論」について話すのか。「理論」を譲歩[concession]だと考える創造論者--歴史否定者や40パーセンター--のそれらの信念に偽りの安心を与えて、贈り物や勝利を手渡してしまうのか?進化は地動説と同じ意味で、理論である。どちらの場合も「単なる理論」というように「単なる」が使われなければならない。進化が「立証されていない」という主張に対しては、証明とは科学者が疑いの目で[仮説を]見るよう強いられること指す概念だと答えよう。著名な哲学者は科学ではどんなものも証明されないと私たちに言う。

数学者は証明することができる--ある厳しい見解によれば、数学者はそれができる唯一の人々だ--が、科学者ができる最高のことは、どれだけ懸命に反証しようと試みたかを示すことだけだ。月が太陽より小さいという議論の余地のない理論さえ、ある種の哲学者の満足感にとってみれば、ピタゴラスの定理が証明されるのと同じやり方で証明することができない。しかしそれを支持する証拠の膨大な蓄積は、それを「事実」だと認めないのは衒学者以外であればおかしいと感じるほど強力だ。同じことは進化にも言える。進化はパリが北半球にあるのと同じ意味で事実だ。

詭弁家[logic-choppers]が街を支配しているけれど、いくつかの理論は理にかなった疑問を乗り越えており、我々はそれを事実と呼ぶ。とても精力的に、徹底的に、あなたは理論を反証しようとする。その攻撃に耐えきったなら、常識的に適切に事実と呼ばれる状態にその理論は近づく。

我々は犯罪が起きたあと現場に登場する刑事のようなものだ。殺人犯の行動は過去の彼方に消えている。刑事には自分の目で犯行を目撃できる望みはない。刑事が持っているのは残された痕跡だけだ。だがそこには多くの真実がある。足跡、指紋(最近ではDNAフィンガープリントもある)、血痕、手紙、日記があるのだ。[The world is the way the world should be if this and this history, but not that and that history, led up to the present.]

進化は避けようがない事実だ。我々はその驚くべき力と単純さ、美しさを賛美すべきだろう。進化は我々の中にあり、我々の周りにあり、我々の間にあり、そして永劫の岩の中に刻み込まれている。ほとんどの場合我々は眼前で起きている進化を観察できるほど長生きしないのだから、事件の後に犯罪の現場にやってきて推理を働かせる刑事の喩えを再訪することになろう。科学者を進化の事実へ導く推論の助けは、あらゆる時代、あらゆる法廷でこれまでに使われ犯罪を立証したどんな目撃証言よりもかなり豊富で、かなり説得的で、ほとんど反論の余地がない。理にかなった疑問を越えた証明?理にかなった疑問?それは史上もっとも控えめな表現だ。

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一月くらいかけてチビチビ読んでいたがもういいや、飛ばした部分があるが出してしまおう。現物は400ページあって思ったより遙かに分厚かった。興味のある部分だけ斜め読みした感じでは、創造論批判(宗教一般の批判ではない)があちこちに出てくる。リチャード・フォーティは「ターゲットを外している」と書評していたが…。

この本に関連して翻訳されたインタビュー記事など
SEED誌によるインタビュー by optical frogさん
Macleans.caによるインタビュー by Kumicitさん
9/24 公開日が違っていたので変更、翻訳へのリンクを追加

科学と宗教に互換性はあるか? -その3.2

http://edge.org/3rd_culture/coyne09/coyne09_index.html

ローレンス・クラウス(物理学者)

この問題の懸念についてあまりに多くのインクが費やされてきた。宗教と科学は無関係だ。科学が宗教を否定するかどうかは神学者にとっては関心事かもしれないが、科学者にとっては問題ですらない。問題は科学が立ち向かっている重要な謎にある。宇宙の起源と未来、生命の起源と未来。

科学と宗教が和解するかしないかが大きい問題だというような、この手の話は誤解を与える。それは大きな問題なんかではない。私はバチカンの会議で神学者に言ったことがある:神学者は科学者の話を聞かざるをえない。一貫した神学を作ろうと試みることを願うなら(私にはそれが可能かどうか意見があるが、それは特に重要ではなく述べる価値もない)、少なくとも彼らは世界がどう働いているのかを知る必要がある。だがそれは科学のプロセスには全く影響を及ぼさない。科学者は神学者の話を聞く必要はない。

ハワード・ガードナー(心理学者)

もちろん、あなたが科学的手法と科学の営みを信じるのなら、お告げ(それがどんな内容であれ)への信仰をほとんど容認しないだろう。しかし我々はみな、もっとも極端な合理主義者でも、心の中に矛盾する信念を持っていてどうにか混ぜ合わせている。私にとって大事な一線は宗教/神を信じる人と信じない人の間にはない:一線は他人がその人の信念システムに干渉しない限り他人の信仰に対して寛容な人と、異なる信念システムを原理的に異なると見なす不寛容な人の間にある。言い換えれば、私は相互の寛容に同意する。まあ相互の尊敬を好みはするが…。そして今や宗教的で真に寛容で、丁重で、世界的で[ecumenical]、包み込むような大統領を持つに至った。--しばらくは宗教戦争を鎮め、感謝の祈りをつぶやこうではないか。

リサ・ランドール(物理学者)

このEdgeの記事を読んだちょうどその日にまさに偶然によって、魅力的な若い俳優がLA行きの飛行機の私の隣に座って何も催促していないのに答えてくれた。彼はちょうどこけら落としから戻るところで、熱意と楽観主義で満たされていた。今日の若者の多くのように、彼は世界に良き場所を残したい。彼は役者としてキャリアを歩み始める前に分子生物学を学び、都市部の三つのミドルスクールで科学教育に参加した。彼は俳優としてのキャリアと一緒に、自分の教育に基づいて学生がよい教育を受けられるワールドワイドな学校をいつかは始めたいと語ってくれた。

しかしこのあたりで会話は曲がり角を曲がった。彼のカリキュラムは宗教に関する少なくとも一つのコースを含む。私は驚かされた--この聡明な青年は生物学を学び、そしてそのほかのあらゆる点について、この種の疑問に答える誰でも持つ典型的な教育に基づいた意見と態度を持っているようだった。しかし宗教は彼の人生の大きいな一部だった。彼の学校で起きる最悪のことは、学生が宗教について学び自分自身で判断するようになることだとはっきり言った。彼自身、ヒトはサルから登場したのではなくてアダムに由来すると信じていた。生物学者が進化を信じていなかったので、私はどのように人が教育されるか理解できなかった。彼はどのように科学を学び、論理を理解することができたか、そしてそれは単に人がどう組み立てられているかの理論だと私に説明した。彼の心にとって、それはその方法であるだけでない。

これは私にとって、提案されている問題に我々が答えてこなかった理由を強化した。経験ベースで論理推論的な科学と、信仰は、真実に近づくための全く異なる方法だ。あなたのルールが論理だけであるとき、矛盾を引き出せる。あなたが天啓の真実を信じるならルールを捨てたことになる。取り組むべき矛盾はない。私はジェリー・コインの質問を同乗者に見せるためにブラックベリーを取り出した。彼は同意した。彼は答えを体現している。

パトリック・ベイトソン(動物学者)

宗教と科学を一致させようという試みは無意味だ。チョークとチーズを調和させようとはしないだろう。それらを全く別のカテゴリーに入れている。無神論者として私は自分が育った多くのキリスト教の文化に動かされていると言う事実に何も問題を感じていない。文化、音楽、建物、少しの宗教的なセレモニー。私は科学的な分析法を多くの喜びを与えてくれる人生の一面に適用する必要を感じない。

しかし他の人が持っていて私が持っていない宗教信仰について、面白い疑問を発することはできる。信仰は彼らにどのように作用しているのか?それは彼らの人生でどのように発達するのか?どのように過去の世代で進化したのか?そして、何のためにあるのか?これらは全て、私たちが生物学と心理学のあらゆる面に対して問う疑問だ。最後の質問は、現代において宗教信念が個人へ果たしている役割は何かという意味においてだが、重要だ。この疑問に答えようとするとき私は実際的で無神論者でもある同僚から距離をとる。

もしあなたが気持ちよく生き、良き友人に囲まれ、刺激的で面白い人生の終わり無き幸運に囲まれているのなら、全知であらゆることを気にかけている存在への信仰の必要性などたいしたことではない。しかし幸福なことなど何も無い惨めな人生を送っているなら、しがみつく何かを、あなたは追い求めるが現実世界には存在しそうにない何らかの信念を望むだろう。

そのような人々に、あなた方は自分を欺いているのだと言うことは驚くほど鈍感に思える。彼らはたった一つの人生しか持っていないのだから、足を踏み出して楽しむべきだ。科学は彼らの助けとなる方向で世界を認識することの助けとなりそうにない。科学は彼らの重荷を楽にするために用いられることができる--しかしそれは別の問題だ。合理的であれと彼らに言うのは彼らの不幸を悪化させるだけだ。私はオバマの科学へのコミットメントと彼がすでに行った重要な科学的な任用を賞賛する。しかし科学の新たな取り扱いが誤った勝利主義を導くなら、そして我々の手を越えて存在する問題に心理学的な解法を提供できるのだという傲慢を導くなら私はさいなまれるだろう。

ダニエル・エヴァレット(人類学者)

宗教は、哲学的に科学と互換性がない。どんな結果でも許される開かれた探求と、「神の真実のお告げ」の概念や知識とその普及を管理する宗教的ヒエラルキーは互換性がない。私は無神論者だ。私は神学の学士を持っているが、それは時間の無駄だと考えている。

しかしこのどれも科学が宗教的な人々と対話する義務から解放しない。科学者は社会の一員だ。文化的、財政的、そして宗教的にも独立して科学を実践できない。アメリカ国立科学財団が宗教的な人々の払う税金から莫大な助成を受けているという事実だけでも、敬意を持った対話を維持することが重要だ。もちろん納税者に科学に対する拒否権があるという意味ではない。しかし科学者が宗教のことを科学の営みとは無関係だと考えることができず、またそう考えるべきではないことを意味する。ジェームズ流プラグマティストなら科学は社会に役立つ成果を提供しなければならないと主張するかもしれない。しかし「役に立つ」のの定義は広い--科学の支持者に対する義務を認識することは不可欠だ。

科学は「お告げ」には私たちにとって良い何かがあると偽って言うべきではないが、科学も「お告げ」のような形を見せることがあるのを忘れてはならない。科学者が観念的な意味で、真実に向かって行進していると考えているとき、彼らは科学的ではなく宗教的に振る舞っている。真実への信仰はローティが警告したように、科学者の神となりえて、そしてそうなるとき他の神と同様に迷信を含むこともある。そして多くの科学者は予言者--その言葉がより尊重され、より真実を反映していると見なされる特別な人々--への信仰を共有する。

科学は汚いところで行われる汚いビジネスだ。科学者はわずかな間にトイレットペーパーを使うように進化したヒト科に過ぎない。科学はそれを支える社会に存在、健全さ、そして結果を負っている。結局のところ、科学者は彼らの神、真実への瞑想という世間的な制約から解放されている修道士ではない。後援者の中には現代社会における彼らの敵も含まれている。彼らは対話をしなければならず、本物の科学の信者だけが対話に値するかのように振る舞ってはならない。どんな冗談であっても我々はカクテルを飲みながら話すのだ。

結論は、宗教は科学の実践に関わるべきではないが、そしてそれ以上に政治にも関わるべきではないが、宗教的な人々は、彼らを丁重に扱い、宗教史家マーク・ノールの言葉で「認識論的な謙遜の天蓋:canopy of epistemic humility」を作るために注意するように要求する権利があるのだ。

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残りはデネット、スモーリン、ダイソン、ダーマン、ギバーソン、ケン・ミラー、サム・ハリス、ピンカー。結構あるなぁ…。リサ・ランドールの答えはちょっと意味がわからない(訳の酷さは別として。もう少し修正しないと…)。この文脈ではその俳優は創造論者であって、科学と宗教が両立していない例ではないのだろうか?それとも実際に両立しないことを示す例として俳優の話を取り上げたのだろうか?

科学と宗教に互換性はあるか? -その3.1

スペルベルの記事の続きを読むためにEdgeに行ったら面白そうな話題を見つけてしまった。
http://edge.org/3rd_culture/coyne09/coyne09_index.html
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「真の問題」と生物学者ジェリー・コインはニュー・リパブリックの「見ることと信じること」という記事で書いた。その問題とは宗教と科学の間に哲学的な互換性があるかどうかだ。科学の経験主義的な性質は、宗教の啓示的な性質を否定するだろうか?二つの間のギャップは、それらが本質的に相反すると考えなければならないほど深いだろうか?

もはや公立学校でのインテリジェント・デザイン教育の支持を公表したジョージ・ブッシュ大統領も、上院議員のリーダーのビル・フリストも、ジョン・マケインもいない。それはコイン、ドーキンス、デネット、ハリス、ヒッチンズ、マイヤーズのような迷信、超自然、無知に容赦ない反対キャンペーンを行う合理思考の擁護者に動員令が下った瞬間だった。コインが指摘したように、我々のジレンマは、現代の科学的知識に反して、その三つの単語が厳格な原理主義者のテキストだけでなく、もっとも洗練された自由主義神学の一般社会から切り離された神学的おまじないにも適用できることだ。

就任式でオバマ大統領は「科学をあるべき位置に戻す」という目標を発表した。同時に同じスピーチで無宗教者は信仰を持つ者と同じようにこの国の一員であると認めた。信仰の欠如を公言する科学者の増大を考慮して、今いくつかの疑問を発するときではないだろうか?デネットが描写した「信仰を信仰すること」は良いことだろうか?故スティーヴン・ジェイ・グールドが主張したような、宗教と科学が真実に到達するためにそれぞれ独立した方法で発言する「重複することなき教導権」にはメリットがあるだろうか?今まさに、科学と信仰に互換性があるかどうかを率直に議論するときではないだろうか?

しかしコインが指摘したように:

そんなに簡単だったらいいのになあ!実際に宗教的な科学者とダーウィン主義の教会人がいる。しかしこれは二つの姿勢が一人の人間の心の中に存在できるという平凡な意味を除いて、信仰と科学が互換性を持つことを意味しない(それは一部の既婚者が不倫をするからといって、結婚と不倫が互換性を持つというのと同じだ)。聖書を文字通り読むのを止めれば--それがもっとも原初的なユダヤ=キリスト教の感覚だし--緊張がいくらか解消するのも本当だ。それでも緊張は残る。真の問題は宗教と科学の間に哲学的な互換性があるかどうかだ。科学の経験主義的な性質は宗教の啓示的な性質を否定するだろうか?二つの間のギャップは、それらが本質的に相反すると考えなければならないほど深いだろうか?この問題を扱う本が絶え間なく流れていくのは、答えが簡単ではないということを示している。

これから数日に渡って、Edgeはこの問題に発言している中から選ばれた人たちの短い返答を掲載する。
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以下、「見ることと信じること」からの抜粋(これもEdgeより)

…残念なことに、理神論の傾向を持つ一部の神学者は、自分が全ての信者を代弁していると考えている。宗教の複雑な歴史に沈まないようにドーキンスと同僚たちは神の存在に対する巧妙な神学議論の全てに取り組まなかったとこれらの批判者は非難した。特にドーキンスは”中途半端な知識で”『神は妄想である』を書いたと批判された。だがそれは的外れだ。確かに彼は中途半端な知識で本を書いた。しかし、まさに現実の人々が暮らし、実践しているのと同じような視点から宗教を議論した。

多くのリベラルな神学者が宗教と進化が調和すると考える理由は、ほとんどのアメリカ人にとって異世界的であり認識もできないような神学を彼らが支持しているからだ。統計はこの非互換性を支持する。たとえば調査された34カ国の中で信仰の程度と進化の受容の間に強い負の相関を見つけることができる。デンマーク、フランス、日本、それからイギリスはダーウィニズムの高い受容と神への信仰の低さを示す。しかしブルガリア、ラトビア、トルコ、そしてアメリカでは事態が逆だ。アメリカの中では科学者集団は非科学者よりも信心深くない。統計が哲学論争の結論を決定できるということではない。科学の受容が信仰を浸食するか、あるいは信仰を持つことが科学の受容を妨げるかをこの統計が意味しているかどうかも重要ではない(どちらのプロセスも起きているに違いない)。これらが示すのは人々が両方を同時に受け入れるのは簡単ではないということだ。それぞれの世界観の枠組みを考えれば、驚くことではない。

この不和は科学界の恥だ。科学と宗教が完全に調和していると宣言することは個人的、職業的な関心においてのことだ。結局のところ我々は政府の補助金がほしいし、子供たちは創造論ではなくて真の科学に曝したい。宗教的にリベラルな人々は創造論との戦いで重要な同盟者だったし、我々がどう感じているかを宣言して距離をとってしまうのは喜ばしいことではない。だから戦術上の問題としてNASのようなグループは宗教と科学が衝突しないと主張する。だが彼らの主要な証拠--宗教的な科学者の存在--は信仰の欠如を声高に叫ぶ科学者の増加によってほころびている。

現在、我々はダーウィンイヤーを迎えている。ケネス・ミラーとカール・ギバーソンのような本が増えるのは予想できる。神と進化を調停する試みは知的な流れ作業から次々と生み出される。調停は決してうまくいかない。だから流れ作業は決して止まらない。

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実際の返答はまた別のエントリに。

9/22 少し訳を訂正

Creation

Yahooニュースより
ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/usa/?1252835716

テレグラフの記事より抜粋
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/northamerica/usa/6173399/Charles-Darwin-film-too-controversial-for-religious-America.html
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Movieguide.org(クリスチャンの視点から映画を批評する影響力のあるサイト)はダーウィンを優生学の父と呼び、「人種差別主義者、偏見主義者、後世に大量殺人を残した1800年代の博物学者」と非難した。…彼の「不完全な理論」はアドルフ・ヒトラーに直接影響を及ぼし、「残虐さ、人道に反する罪、クローニングと遺伝子工学」を引き起こしたとサイトは述べた。

クリエイションのプロデューサー、ジェレミー・トーマスは、そのような態度が『種の起源』の公刊から150年後にまだ存在することに驚愕すると述べた。…「アメリカではこれがまだ”取扱い注意”だなんて我々には信じられない。神が6日で世界を作ったことへの大きな信仰がまだある。イギリスの我々にはアメリカの宗教を想像するのは非常に難しい。我々はもうそれほど信心深い社会にはすんでいない。しかしアメリカでは、ニューヨークとロサンジェルスの外側は宗教に支配されている。」
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キャスト
ダーウィン--ポール・ベタニー
ハクスリー--トビー・ジョーンズ
フッカー--ベネディクト・カンバーバッチ
オランウータンのジェニー
原作はランダル・ケインズ
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http://creationthemovie.com/flash/#/trailer/
トレイラーを見てダーウィンがマスター・アンド・コマンダーのマチュリン役に似ているなあと思ったのだけれど、調べてみるとまさにその人だった。マチュリンはいい感じに演じられていたので、この映画でも期待できるんではないだろうか。マチュリン自身、部分的にダーウィンをモデルにしているし、マスター・アンド・コマンダーでもガラパゴス諸島で「種の変化」に気づくようなそぶりを見せる。

creation_huxley
気になるのはハクスリー役の人。どうみてもダーウィンより一回り老けている(本当は一回り若い)。リチャード・オーウェンかと思った。

原作は『ダーウィンと家族の絆』。ダーウィンの伝記としてはちょっと家族愛を強調しすぎていると感じたのだけど、映画化するにはちょうどいいかもしれない。日本では公開されるのかな。

ロバート・メイの原理主義批判

http://www.independent.co.uk/news/science/fundamentalism-will-damage-society-says-top-scientist-1782930.html
生態学者ロバート・メイが原理主義宗教を批判した。ジェリー・コインは「それなりにメイのことを知ってはいたが、今まで一度も宗教に対するスタンスを聞いたことがなかった」そう。
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来世での罰を与えることのできる神という形をとった超自然者の存在は、かつては社会を”協力する存在”として結びつける助けとなったかもしれない--しかし将来はそうではない。

英国サイエンスフェスティバルの理事長、オックスフォードのメイ卿は、宗教がかつては人間の社会を安定させる助けとなったかもしれないが、原理主義の高まりが環境問題や人口の増大のような国際問題に取り組むために必要なハイレベルな協力をより困難にするかもしれないと述べた。政府の前チーフ科学アドバイザーである彼は東洋・西洋どちらでも、原理主義宗教が21世紀の問題に対処する世界の能力に悪影響を及ぼすかもしれないと警告した。数理生物学者であるメイ卿は理事長演説で、今後数十年に世界規模での人々の協力がいっそう必要となるとのべたが、その協力が確実に可能となるように抜け駆けした人を罰するメカニズムが必要となるのを恐れる、と付け加えた。過去には究極的な処罰者は神だった。「すべてを見通し、全知で、全能の世界をコントロールする神」による罰はは誰か個人からの罰よりもずっと効率的だったと彼は述べた。

そのようなシステムでは権威に対する疑いのない尊敬がある。信仰は証拠に勝る。だがこれが本当にどのように協力行動が進化したかのおおざっぱな説明で、そして人間社会で維持されてきたことの説明だとしたら、かなり悪いニュースかもしれない。そのような権威主義的システムは社会の調和や秩序を維持するのに都合がいいだろうから、同じ理由で、変化に順応するのに都合が悪いかもしれない。

イスラム世界だけでなくアメリカでも、それからカトリック教会内部でも、原理主義の台頭はかつて無いほどのチームワークが必要になるとき本当に世界的な協力を困難にするだろうとメイ卿は述べた。

あなたが緊急時に、権威主義的ヒエラルキーが変化に抵抗するという視点をとるならば、宗教の歴史が穏健な方向へ向かってきたというなら、ドグマ的でなくなると言うなら、困難な状況下であなたは複雑な問題を単純なお題目に変えていくことになる。

オバマとID

もう一年以上前(2008年3月)のエントリーだが…ブログ『Thoughts from Kansas』から。
http://scienceblogs.com/tfk/2008/03/obama_on_id.php
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ドーバー・インテリジェントデザイン裁判で知られるヨーク・デイリー・レコードはバラク・オバマにインタビューした。

Q:ヨーク郡は最近、インテリジェントデザイン教育に関連した裁判で、ニュースで取り上げられました。進化を公立学校で教えることに関してあなたのスタンスはどうですか?

A:私はクリスチャンです。そして私は国の関与なしで宗教の教示を子に与えることができる親を[良いことだと]信じています。しかし私はまた学校が広い知識と科学を教えるためにあると考えています。私は進化を信じています。そして科学と信仰の間に違いがあると考えています。信仰が科学よりも重要でないということではありません。つまり二つは異なるものだということです。それから、私は率直に言って科学的探求に耐えられない理論で科学教育を曇らせようとするのは誤りだと思います。

これはオバマ上院議員[当時]の見解に対する我々の知識の不足を埋めるものだ。[2008年]1月にロン・ベイリーは大統領候補の立場を要約した:

広範囲に検索したところ、民主党の有力候補バラク・オバマ上院議員の進化に関する明確な声明を見つけることができなかった。2006年6月にはSojourners会議の基調演説でこう述べた:「アメリカのかなりの人々が進化よりも天使を信じている。」オバマはそのスピーチで「日常的に教会へ行く人とそうしない人の間に」一つのとても大きな政治的ギャップが存在するとはっきり述べた。それから彼は「宗教的なアメリカ人は中絶、ゲイの結婚、学校の祈祷師、インテリジェントデザインのような問題だけを気にする」と述べることで保守派の指導者がギャップを広げていると厳しく批判した。これは最低でもオバマがIDは必要以上に対立を生むと考えていることを示している。

オバマはIDや他の非科学を理科の授業で教えることに反対だが、驚くようなことではない。しかし本当の科学を支持して、それを公にしたのは喜ばしいことだ。

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インタビューの(たぶん)全文はこちら。ただしIDや教育についての質問はここで引用されている一つだけ。
http://sharp.sefora.org/wp-content/uploads/2008/07/obama-york-interview.pdf