砲火を浴びた進化論

Kumicitさんのシカゴで進化論 Newsweek 1980というエントリから、放置していた記事があったことを思い出した。

一部の人々にはとても人気があった記事、1980年にサイエンスに載ったロジャー・リューインの『砲火を浴びた進化論』。2000年から2008年頃まで一般公開してくれていた人がいたのだが、公開するために毎年AAASに100ドル支払っていたそうで、残念ながらもう公開を止めてしまった模様。一部だけ抜粋。

“Evolutionary Theory Under Fire” by Roger Lewin, Science , Volume 210, 21 November 1980, pp 883-887.

シカゴでの歴史的な会議は現代的総合の40年にわたる長い優位に疑問を呈した。最近の学会の最終日の朝食の時にこんな会話を耳にした。「大進化を信じますか?」「うーん、それをどう定義するかによるね」。さまざまな点で、この謎めいた会話は、ここ30年の進化生物学のもっとも重要な会議の参加者が持った感想を表していた。広い範囲の研究者--地質学者、考古学者から生態学者、集団遺伝学者を通して発生学者、分子生物学者までがシカゴのフィールド自然史博物館のシンプルなタイトルの会議に集まった。「大進化」。彼らの任務は種の起源と種同士の進化的関係の基盤となるメカニズムを討議することだった。

Overheard at breakfast on the final day of a recent scientific meeting: “Do you believe in macroevolution?” Came the reply: “Well, it depends how you define it.”

In many ways this cryptic exchange expressed the prevailing sense of the participants at one of the most important conferences on evolutionary biology for more than 30 years. A wide spectrum of researchers- ranging from geologists and paleontologists, through ecologists and population geneticists, to embryologists and molecular biologists- gathered at Chicago’s Field Museum of Natural History under the simple conference title: Macroevolution. Their task was to consider the mechanisms that underlie the origin of species and the evolutionary relationships between species.

過去40年にわたって進化生物学は現代的総合に支配されてきた。その用語は1942年にジュリアン・ハクスリーによって提案された。この理論は急速に成熟した集団生物学と遺伝学の概念でダーウィニズムを説明していた。理論は基本的に次の二つである。第一に構造遺伝子の中の点突然変異は個体変異の源である。その進化的変化は集団中の遺伝子頻度の変動の結果である。種の起源と種グループにおけるトレンドの発達は、これら小さな遺伝的差異の漸進的な蓄積として説明される。現代的総合によれば進化的変化のペースはゆっくりである。第二に進化的変化の方向は小さな変異に作用する自然選択によって決定される。生き残る変異型はその環境にもっとも適したものだ。個体の形ーー彼らの形態ーーは適応主義の有用性の光に照らされる。

集団内の変化は小進化と呼ばれる。それらは実際に遺伝子頻度の変化の結果として受け入れられる。種レベル以上の変化--新種の起源と高位の分類群パターンの確立--は大進化として知られる。シカゴ会議の中心的な問題は小進化の基盤のメカニズムが大進化現象を説明するために外挿できるかどうかであった。……しかし大進化が小進化から完全に切り離されるかどうかはそれほど明確ではない。この二つは重複する部分を持つ連続体と見なされる方があり得るだろう。

For the past 40 years the study of evolutionary biology has been dominated by the Modern Synthesis, a term coined by Julian Huxley in 1942. This theory explained Darwinism in terms of the rapidly maturing sciences of population biology and genetics. Essentially the theory says the following two things. First, that point mutation within structural genes is the source of variability in organisms and that evolutionary change is the result of a shift in the frequency of genes within a population. The origin of species and the development of trends in groups of species are explained as a consequence of the gradual accumulation of these small genetic differences. The pace of evolutionary change, according to the Modern Synthesis, is slow. Second, the direction of evolutionary change is determined by natural selection working on small variations: the variants that survive are those that are best fitted to their environments. The shape of organisms – their morphology – is therefore viewed in the utilitarian light of adaptationism.

The changes within a population have been termed microevolution, and they can indeed be accepted as a consequence of shifting gene frequences [sic]. Changes above the species level – involving the origin of new species and the establishment of higher taxonomic patterns – are known as macroevolution. The central question of the Chicago conference was whether the mechanisms underlying microevolution can be extrapolated to explain the phenomena of macroevolution. At the risk of doing violence to the positions of some of the people at the meeting, the answer can be given as a clear, No. What is not so clear, however, is whether microevolution is totally decoupled from macroevolution. The two can more probably be seen as a continuum with a notable overlap.

参加者が取り組んだ問題は三つの大きなエリアに集約された。進化のテンポ、進化的変化のモデル、新しい生物の肉体的形状の制約。

The issues with which participants wrestled fell into three major areas: the tempo of evolution, the mode of evolutionary change, and the constraints on the physical form of new organisms.

重要な問題は多くの場合で古い形態から新しい形態へのスムーズな移行を化石は記録していないことである。「何百万年にもわたって化石記録の中で種は不変のままだ」とハーバードのスティーヴン・ジェイ・グールドは言う。「それから彼らは、かなり異なってはいるが、明らかに関係のある他のものによって置き換えられることで急速に姿を消す」。

But the crucial issue is that, for the most part, the fossils do not document a smooth transition from old morphologies to new ones. “For millions of years species remain unchanged in the fossil record,” said Stephen Jay Gould, of Harvard, “and they then abruptly disappear, to be replaced by something that is substantially different but clearly related.”

「確かに記録は貧弱だ」とグールドは認める。「だがあなたが見ている急変はギャップの結果ではない。進化的変化の突飛な[ jerky ]モードの結果なのだ。

“Certainly the record is poor,” admitted Gould, “but the jerkiness you see is not the result of gaps, it is the consequence of the jerky mode of evolutionary change.”

「私は種分化が、そう、5万年もかけて起きることを喜んで認めよう」。「だがそれはほとんどの種が存在する500万から1000万年と比べればほんの一瞬なのだ」。しかしもっとも熱狂的な断続主義者であっても進化の要因として漸進的な変化を追放したりはしない。

“I’d be happy to see speciation taking place over, say, 50,000 years,” said Gould, “but that is an instant compared with the 5 or 10 million years that most species exist.” However, even the most ardent punctuationists do not dismiss gradual change as a force in evolution.

現代的総合によって体現されている適応主義の万能の見解は覆される。討論でこの点についてメイナードスミスは抗議する必要を感じた。「これらの構造主義的なアイディアは現代的総合と相容れないものであるかのように提示されている。実際には、あなたはここでの大部分のアイディアを、私が25年前に書いた本や現代的総合の伝統に属する他の人々の本で見つけるだろう。」彼は明らかな懸念とともに付け加える。「あなたがたは存在しない知的な対立が、存在するかのように仄めかすことで、理解を妨げる危険を冒している」。

……グールドはより深刻な調子で加わった。「それは考慮していると言われてきたことだが、行われてきたことではない。我々が話している現象は現代的総合でずっと認められてきたかもしれないが、数十年間すべての研究を導いてきたのは適応主義だった」。

共通の基盤を探し、探求し、調査する[必要の]雰囲気はすべての参加者が感じた……

At this point in the discussion Maynard Smith felt moved to protest: “These structuralist ideas are presented as if they are antagonistic to the Modern Synthesis. In fact, you will find the major ideas here in a book I wrote 25 years ago and in the writing of many others in the tradition of the Modern Synthesis,” he said, adding with obvious concern, “You are in danger of preventing understanding by suggesting that there is intellectual antagonism where none exists.”

“You may have had the wheel, John, but you didn’t ride away on it,” Oster quipped with a telling metaphor. Gould added in more serious vein: “It is not so much what is said that counts, but what is done. These phenomena we talk about may have been acknowledged in the Modern Synthesis, but the principle guiding all the work of the past few decades has been adaptationism.”

David Raup, of the Field Museum, described the meeting aptly when he said that it had been “easier to identify the issues than to draw conclusions.” The atmosphere of questioning, probing, and seeking common ground was perceived by all present.

しかし関連しそうなフレーズで検索したが、あまり引っかからなかった。日本の創造論者にはあまり人気があるネタではないのか…。
進化論は正しいか?  松岡 平著 「真理とは何か?」より 津久野キリスト恵み教会出版部 発行

「1980年の進化論を討議するために、世界中の分子生物学者、発生学者、生態学者、生物学者がシカゴのフィールド博物館に集まった。会場は、たちまち伝統を派と改革派との対決の場と化した。多くの発言者とオブザーバーは会場の終わりのころには、進化論に関して歴史的変化が起きたこと実感した。
 討議のテーマは、過去40年間支配的だった新ダーウィン説ともいうべき”進化総合説”に関してであった。 —中略—会議中、出席者の心をとらえて離さなかったのは、個のレベルでの小さな遺伝子の変化の積み重ねが、果たして新種の出現という種のレベルでの変化を起こし来るのか、という問題であった。換言するとこの理論は、時間さえかければ種の中の個の、いろいろな遺伝的変化の累積的効果を生み、さらに自然淘汰の結果、最終的にまったく新しい種になるというものだが、これが本当なのかどうか、という問題である。そして結論を先に言えば、この学説は決定的なダメージを受けたのであった。
(アメリカ「サイエンス」誌 VOL.210より)

一見するとサイエンスに載った記事を正確に訳してあるかのようだが、誰かが要約したものをさらに要約したようである。それでも途中までは要約として正しい。が、最後の「そして結論を先に言えば、この学説は決定的なダメージを受けたのであった」はリューインの記事に相当する表現はない。

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宗教の起源:適応か副産物か?

Trends in cognitive sciencesでオピニオンとして公開されたIlkka Pyysiäinenとマーク・ハウザーとの記事。短いが全訳するのもあれなので適当に抜粋。んでいつもの通り、意味が通りやすいように意訳。[ ]内の補足と強調は私。

The origins of religion : evolved adaptation or by-product?

適応か副産物か?

進化的な視点からは、人々が遺伝的に無関係な他人のためにしばしば犠牲を払うという事実は説明を要する問題である。人間が頻繁に宗教への奉仕として驚異的な犠牲を払うことから、一部の著者は、宗教信仰、特に神への信仰は、集団内の協力を容易にするための適応として誕生したと主張した。この主張にはいくつかのわずかに異なるタイプがあり、我々は以下でそれぞれを議論する。我々の中心のテーマは、人類集団の中で観察される特定のハイレベルな協力だけが可能というものだ。というのも人間は基準一貫[norm-consistent]した道徳直感と、一貫性のない行動を、そして善と悪に関する直感的な判断を進化させたためだ。この見解は、直感的な[意識されていない]宗教信念と明示的な[意識されている]それとを区別しなければならないのと同様、直感的な道徳プロセスと明示的なそれの区別を要求する。このように、宗教がどのように協力の進化に関係したかという疑問は二つの異なるレベルで問うことができる:一方は善悪、明示的な規範、個人の価値、法慣習に間する直感的な信念、それからもう一方は直感的な宗教信念、明示的な教義、宗教への参加である。

進化的適応としての宗教

Beringは、人間の社会環境において独特な選択圧への反応として進化した、精神的な不死性とシンボリックな意味を表す、空想上の表象を形作るための認知的なシステムがあると主張する。来世への信念が自然選択の直接の産物というわけではないが、明示的な[意識的に思い浮かべることのできる]宗教概念の存在に依存しない「推論の直観的なパターンが自然選択の産物として形作られた。このように「死後の世界というありふれた考えは、非直観的な逸話を通して人間の頭に埋め込まれるわけではない。すでに[頭の中に]存在している」のだ、人間の認知構造として、と言うわけだ。宗教とは、他の進化的な認知構造にうまく寄生するために文化の伝達の中で生き残る一連のアイディアのことだ。

宗教が進化的適応であるという議論の二番目は、宗教的な信念と儀式が、グループにコミットすることの高コストな[手間や労力がかかり適応度を下げる]シグナルだという主張である。他人の協力する意志を利用しようとするタダ乗り屋は識別される。というのもタダ乗り屋は、金を与えたり、多くの時間を宗教活動につぎ込んだり、儀式で進んで肉体を傷つけるような、フェイクするのが難しい高コストなコミットメントの顕示に関わらないからだ。このように宗教的な儀式やタブーは高コストなシグナルとして、文化的選択に基づいて集団内協力を促進する。行動経済ゲームでニュージーランドの匿名のキリスト教徒は明らかに多くをカナダのキリスト教徒に与えた。これは匿名のニュージーランド市民が同国民に与えるのよりも多かった。

宗教がどのように協力を促進するかという説明の一つは、大きな集団で観察されるような、霊魂や全てを見通す神を信じることは、自分が見張られていて、協調的な振る舞いは報われ、ズルをすれば罰されるという感覚を引き起こすことで、効果的に離反を防ぐからというものだ。このように道徳的な不正に対する超自然的な罰を人々が信じれば協力の意志は促進されるが、そのような罰への怖れは自然選択によって好まれた適応だ。この見解への支持は、同じ超自然的エージェントへのコミットメントが、大きな地理的範囲に広がり、異なる民族グループを含むコミュニティで、個人の行動を監視するコストを押し下げることができたことを示す研究から得られる。宗教的な向社会性は、大きな集団で協力の安定したレベルの進化を支える重要なメカニズムを提供したのかもしれない--互恵主義や評判への関心では不十分な状況下で。このようにズルを減らし、見知らぬ人への気前の良さを促進するのは、単なる宗教の集団的な側面ではなく、まさしく神への信仰である

副産物としての宗教

宗教の副産物説は二段階の議論に基づく。まず「宗教」は明確な境界や本質のない曖昧なカテゴリである。特定の信念や行動が宗教的か否かを決定するのは難しい。これは実体的な総体としての「宗教」のいかなる説明にとっても問題を引き起こす。副産物説はこの問題を、「宗教」という用語を明確な境界なしで、信念や行動の曖昧な集まりに言及するヒューリスティックな語として用いることで回避する。それは宗教の説明というよりもむしろ、宗教のあらゆる側面が一時に、歴史のある時点で誕生したという考えを否定している

第二に「神」や「永遠の命」のような概念は宗教のものと考えられているが、具体的な宗教的認知メカニズムは特定されておらず、副産物説はそれらの存在を予期しているわけでもない。たとえば神の概念から推論を引き出すことは、全てのエージェント[行為主体]概念から推論を引き出す助けとなる、マインドリーディングメカニズムを必要とする。このように神の概念は、実体的なエージェント[たとえば他者]の欲求や信念を認める標準的な能力[心の理論など]を、非実在的なエージェントまで拡張することに基づいている。

これらの認知機構のおかげで我々は他者の意識的な心理を推論し、意識的な心理を他者の意識的な心理に再帰的に埋め込むことができ、他者が何を考えているのかを考えることを可能にしてくれる。そこには不在の人間や、死んだ者の意図まで、あるいは空想上のキャラクターや超自然的エージェントまでが含まれる。宗教のために、あるいは神の表象のために専用化され、入力制限されたメカニズムを持ち出す必要がない。協力に関して、人間には多くの非宗教的で向社会的な認知構造がある。

超自然や宗教信念に関するこれら[の認知メカニズム]は互いに独立して進化して、そのような信念を持っているか持っていないかにかかわらず、人々の中で、まだ宗教を教え込まれていない幼い子供の中でさえも、同じように働く。

Beringらのような心理学的な実験や行動の計測は、一般に「宗教的な」信念や行動と考えられているものの認知的な基礎に関する有益な情報を与えてくれる。しかし機能から進化的な原因への[議論の]移行のためには、それらでは十分でない。よりあり得そうな見解は、我々が提案するものだが、全てというわけではないが、ほとんどの心理的要素は一般的な社会的相互作用の問題の解決のためにまず進化して、それから協力と同様に、神についての考えを含む宗教活動に取り入れられたというものだ

したがって宗教概念と信念は、道徳に関連した規範と価値の表現と正当化に動機づけられていて、またインスパイアされてもいるが、それはどんなグループのメンバー--チームスポーツでつきあった人々から、大学の学部メンバーまで--も結びつけることができる動機付けにも利用できる認知メカニズムに根ざしている。

この見解によれば、宗教はその起源において自然選択の結果として生まれたのではないが、選択の対象になりえて、観察されたバリエーションはいくらかの遺伝的な構成要素を持っていると仮定する。実際のところ宗教は、道徳的なアイディアを処理する安価な認知機構を提供し、グループの団結を作り強化する手段を提供するようだ。しばしば道徳は宗教なしでは成り立たないと主張されるように。

宗教ぬきの道徳?

一部の人々にとっては、宗教なしの道徳などあり得ない。他の人々にとっては、宗教は単なる道徳的直感の表れと正当化の一つにすぎない。宗教はいくつかの点で道徳と関連がありうる。道徳原理は神によって、祖先によって、あるいは聖人や神聖な人によって示される、従うべきモデルで決定される。あるいは神や祖先は人々が何をするかに注意を払うグループであると考えられている。このように人々は自分の道徳上の選択が決して自分だけのものではないと感じる。明示的な宗教信念と、宗教的直感の産物を明確に区別することは重要である。

たとえばBeringは非宗教的な問題であっても感情のような精神状態とプロセスが、たとえば飢えのような他のものよりも死後に継続しそうであると直観的に考えられるという実験的な証拠を示す。

Bloomは全ての人間が、我々「自身」が自分の体の所有者であると感じるが、自分と体は同じものでは無いと感じるという意味で、直観的な二元論者であると主張する。このように素朴心理学では体の死は個人性の終わりを意味しない。

その上、人間の推論は「見境のない目的論」--全ての物事に対して意図や意味を感じさせる能力--に特徴づけられているので、我々は自動的に、様々な出来事の説明としてエージェントを仮定する。これはしばしば神のような概念をとる。たぶんこのような傾向は宗教信念を「感染性」のあるものにするだろう。彼らは心の基本的な働きの多くに効率よく住み着くために、簡単に分散し、増殖するという点において。

宗教研究と道徳的直感研究のリンク

協力は、異なった文脈で規律違反者の処罰や規律遵守者の賞賛に用いることができる、一般化された直感的な善悪の概念を、人々が持つことを必要とする。ここで我々は当初、進化的適応としての宗教研究ではほとんど影響がなかった実験的、理論的文献を扱う:実験道徳心理学。……ここで我々は、道徳直感が宗教的バックグラウンドとは独立して働き、より重要なことに宗教的なインプットを必要としないという考えを示す一連の発見を提示する。実際にこの分野の研究のかなりが、道徳判断は、宗教と法習慣のどちらの明示的な指図からも比較的免疫があることを示している。

宗教学や、宗教の文脈外での道徳発達と道徳心理学には長い伝統があるが、初期の研究は幼児の道徳性の成熟の道筋、特に道徳行動と理性化に集中していた。しかしここ10年で直感の役割、特に善悪の判断(感情と心的状態の表象 mental state representationsを含む)の基礎となる認知と神経プロセスに関心がシフトした。いくつかの興味深い理論的な見解があるが、ここで我々は言語アナロジー linguistic analogy (LA)を取り上げる。というのもこれはユニバーサル性と文化的差異を考える際の具体的な概念的フレームワークを与えてくれるだけでなく、これまでのデータと整合性があると考えるからである。これは宗教が適応として進化したか、他の認知能力の副産物かの議論への新しい入り口を切り開いてくれる。要約すると、LAは我々の道徳心理学の構造、それから特にコミュニティの成熟したメンバーが道徳的な問題に対して用いる(無意識に働く)知識、そしてすべての子どもたちがそのような道徳能力を身につけるメカニズムに関する理論である。

この見解によれば、我々は他人の福利に関連して、行為主体の原因と意図の心理に対して働く一連の抽象的な原理ーー何人かが普遍文法にたとえた能力ーーが与えられている。LAは特定の原理が我々の種のすべてのメンバーに共有されているという強い予測を行う一方で、内容はバリエーションを受け入れる。おそらく言語におけるパラメータと同様のなんらかのセッティングによって形作られるのだろう。たとえば異なる手法と異なる集団で行われた様々な研究で、参加者は一貫して危害を引き起こす行動を、行動しないことによって同じ害を引き起こすよりも悪いと判断した。これはオミッションバイアス(省略バイアス)と呼ばれる区別だ。いくつかの研究では、一部の集団、特定の例ではオミッションバイアスを示さないかもしれないが、行動の省略が行動することよりも厳しく判断されるような逆転は滅多に観察されない。たとえばオランダは2001年に積極的安楽死と消極的安楽死のどちらも合法化する法案を通し、アメリカでは積極的安楽死が違法であるにもかかわらず、オランダ人はアメリカ人と同じくらい強いオミッションバイアスを示す。これは公的な道徳システムとしての法律が特定の行動への特定のガイドラインを果たすに過ぎず、そのような知識は素朴(folk)道徳直感に影響を与えたり変えたりできないことを示している。この見解によれば、そして上述したように、明示的な宗教コミットメントは法律に相当するようである。それは特定の行動への特定のガイドラインを提供するが、道徳直感システムからは分離されているようである。

結論

明示的な宗教性は、協調能力の根底にある道徳的直感に影響を与えることができないのだから、宗教は集団内協力のための究極的な源ではありえない。協力は宗教特有ではない一連の心的メカニズムによって可能となる。道徳判断はこれらのメカニズムに依存しており、人の宗教的バックグラウンドとは独立して働くようである。宗教は生物学的適応として起源しなかったが、グループ内の協力を助け、安定させる役割を果たし、そのため文化的選択のターゲットとなり得ただろう。宗教的なグループは非宗教的なグループよりも長く存続するようだ。将来的には、素朴な道徳直感と死後の世界、神、祖先に関連する直観的信念の関連を調べ上げるためのより実験的な研究が必要だ。多くの文化で宗教的な概念や信念が道徳感を概念化するスタンダードな方法になったようだ。すでに議論したようにこの関連は必須なものではないが、多くの人々はそうすることに慣れており、宗教を的にした批判は我々の道徳の存在への原理的な脅威と感じられるようだ

BOX3  未解決の問題

宗教思考と行動の基礎となる認知メカニズムのどれが宗教専用だろうか(そういう物があるとしたら)?そしてどれが他の知識の領域と共有されているのだろうか?
宗教思考と行動の媒体となる認知メカニズムは、どのように神経的に配置されているのか?
どんな範囲において宗教的なバックグラウンドは道徳に関係する行動に影響を与えるだろうか?(仮定的な状況に関する判断と対照的に)
子供たちはどのように宗教を獲得するだろうか?宗教が入力されるタイミングと本質はどんな物だろうか?
最初の宗教獲得は、それ以降の別の宗教獲得とは異なるだろうか?
特定の宗教行動は遺伝するだろうか?
宗教への遺伝的、文化的な関与はどのように共進化したか?
どのようにして適応主義的な見解と副産物的見解は統合できるだろうか?

宗教が適応か、他の適応の副産物かは種問題と同様の泥沼にはまりそうな気がする。結局のところ、適応の明確な定義がなく、便利な漠然とした概念として用いられているのだから。鳥の飛翔能力は一つの形質として長らく選択を受けてきたという点では適応と呼べるかもしれないが、飛翔のために進化したのではない様々な器官(羽や前肢、脳etc.)の副産物として起源したという点では副産物といえる。したがって宗教が適応か副産物かという議論は、宗教のために用いられる認知メカニズムのどれだけが宗教専用か、あるいは宗教のためにどれだけ調和して働くかという程度の問題になりそう。