神と科学は混ざらない

ウォール・ストリート・ジャーナルの記事より。執筆者は物理学者ローレンス・クラウス
このセッションはテンプルトン財団の後援によって行われたようだ。
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科学者としての私の流儀は無神論だ。つまり、私が実験を始めるとき、私は神や天使、悪魔が干渉しないと仮定する。だから世界の出来事についても無神論でなければ、私は知的に不誠実だと言うことになるだろう。
-JBS ホールデン(『事実と信仰』,1934)

先週、私はニューヨークシティで行われたワールドサイエンスフェスティバルでいくつかの刺激的なパネルディスカッションに参加する機会に恵まれた。もっともドラマチックな遭遇は「科学、信仰と宗教」と奇妙に題されたパネルで起きた。私は参加する理由がわからないと主催者に話した後、招集された。結局のところ、パネルは科学と占星術、あるいは科学と魔法ではなかった。なぜ科学と宗教なのか?

私は最終的に無神論者とラベルを貼られたパネリストの一人となり、もう一人は哲学者コリン・マッギンだった。反対側には信心深いカトリックの科学者たちがいた。生物学者ケネス・ミラーとバチカンの天文学者Guy Consolmagnoだ。マッギン氏は、たとえ誰もそれを証明できないとしても、サンタクロースが存在しないと仮定することは非常に合理的だと話すところから始めた。同様に、と彼は主張した。同じ論理を神の存在の想定へも適用することができる。

セッションのホストであった、やや宗教的な傾向があるリポーターのビル・ブレイクモアは「私はあなたが合理的な無神論者であると思います」と言いだして私を驚かせた。恐らく我らのホストは、『神は妄想である』のリチャード・ドーキンスや『信仰の終焉』のサム・ハリスのような書籍で成功した後に激しい攻撃の矢面に立たされたいわゆる原理主義的無神論者に応えていたのだろうと思う。これらの科学者は科学が神への信仰と相容れないと主張し、信仰を持つ人々から批判された。これは明白にあやまった主張だと、参加していた二人のカトリック科学者は証言した。また他方で、科学が神は妄想であると示唆するという議論は、科学は打ち破られるか宗教に取り込まれなくてはならない無神論的な敵であるという原理的宗教右派の見解を強めるだけだ、とも。

たまたま、私は様々な州の教育委員会で、進化を「敵としての科学」の見本と考える人々から進化生物学を守ろうとする役割をケネス・ミラーとともに何度も果たした。それらの原理主義者は科学が彼らの信仰を突き崩すというリスクを負うつもりはない。彼らは子供をそれらの知識から隔離しておこうとする。

観衆に対して、私は進化生物学を現実のものだと認めるのに無神論者である必要はないと言い、例として友人のケネスを指した。この言明は私を別の友人、ハリスやドーキンスから引き離すように見える。

だがそれは錯覚である。それは近年の多くの率直な無神論者=科学者=作家への誤認を反映している。ネイチャーは編集記で「無神論絶対主義者」は「文化的にも歴史的にも孤立している」と述べた。しかしこの告発は不公平である。ハリスやドーキンスが現代科学における信仰の実践者の矛盾を指し示すとき、ただ単に彼らは正直なだけだ。進化生物学者であり集団遺伝学の創始者であるJBSホールデンは科学が必然的に無神論的な訓練であると考えた。ホールデンが上手く描写したように、神や天使や悪魔が実験に干渉すると仮定していたら、人は科学的発見のプロセスを継続することなどできない。神をもちだすのは、当たり前のことだが、科学では見当違いだ。

物質界における科学の特筆すべき成功に直面して、多くの、いや実際にはほとんど全ての科学者ははっきりと、ホールデンがしたように振る舞う。すなわち彼らは科学の無神論をより一般的な無神論にも用いる。

ワールドサイエンスフェスティバルでのマッギンの指摘は、全く非の打ち所がないわけではなかったかも知れないが、確かに合理的だ。科学のプロセスは、ただ宇宙を作っただけという緩やかで漠然とした神の概念と互換性はあるかも知れないが、ほとんどの世界的な組織宗教の詳細な教義とは合理的な整合性がない。サムハリスは最近、彼を無神論絶対主義者と呼んだネイチャーに対して返答でこう述べた。「科学とキリスト教の和解は、物理学、化学、生物学、確率的推論に基づいた基本的な理解と、明白に馬鹿げた筏、鉄器時代の信念を調和させようとするようなものだ」

私が二人のカトリック信仰を持つ同僚に向かって、処女懐胎の奇跡はどうしたら基礎生物学と一致するのか尋ねた。私は最終的に、その聖書の記述はたんに誕生の重要さを強調するためだったのだろうと言う回答を得た。二人とも、この紛れもないカトリック神学の中心教義を率直に弁護しようとはしなかった。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で主張されている神の奇跡に関して、科学はただ単に本当に無神論的な世界観と一致しているだけだ。さらにこれらの信仰の各々の信者は、他の全ての信仰の神聖な教義に対しては無神論だ。キリスト教はコーランが宇宙の創造者の不謬の言葉を含むという主張を拒絶する。イスラム教とユダヤ教はイエスの神性を拒絶する。

科学的な合理性は無神論を要求しないが、神の存在に対する議論の基礎としてそれを用いること、そして処女懐胎のような奇跡の主張が自然に対する我々の科学的な理解と互換性がないと結論する事は、決して不合理ではない。

最後に、これらの問題が純粋な学問上の問題ではないと指摘する価値はある。イランにおける現在の危機は、宗教的ドグマにもとづいた世界と理性に基づいた世界の間の致命的な矛盾を明らかにした。おそらく、科学と宗教の非互換性について正直に述べることの最も重要な貢献は、人間の問題では--物質界のその他の部分と同様に--理性がもっとも良いガイドであると全く明らかにできることだろう。

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