宗教の起源:適応か副産物か?

Trends in cognitive sciencesでオピニオンとして公開されたIlkka Pyysiäinenとマーク・ハウザーとの記事。短いが全訳するのもあれなので適当に抜粋。んでいつもの通り、意味が通りやすいように意訳。[ ]内の補足と強調は私。

The origins of religion : evolved adaptation or by-product?

適応か副産物か?

進化的な視点からは、人々が遺伝的に無関係な他人のためにしばしば犠牲を払うという事実は説明を要する問題である。人間が頻繁に宗教への奉仕として驚異的な犠牲を払うことから、一部の著者は、宗教信仰、特に神への信仰は、集団内の協力を容易にするための適応として誕生したと主張した。この主張にはいくつかのわずかに異なるタイプがあり、我々は以下でそれぞれを議論する。我々の中心のテーマは、人類集団の中で観察される特定のハイレベルな協力だけが可能というものだ。というのも人間は基準一貫[norm-consistent]した道徳直感と、一貫性のない行動を、そして善と悪に関する直感的な判断を進化させたためだ。この見解は、直感的な[意識されていない]宗教信念と明示的な[意識されている]それとを区別しなければならないのと同様、直感的な道徳プロセスと明示的なそれの区別を要求する。このように、宗教がどのように協力の進化に関係したかという疑問は二つの異なるレベルで問うことができる:一方は善悪、明示的な規範、個人の価値、法慣習に間する直感的な信念、それからもう一方は直感的な宗教信念、明示的な教義、宗教への参加である。

進化的適応としての宗教

Beringは、人間の社会環境において独特な選択圧への反応として進化した、精神的な不死性とシンボリックな意味を表す、空想上の表象を形作るための認知的なシステムがあると主張する。来世への信念が自然選択の直接の産物というわけではないが、明示的な[意識的に思い浮かべることのできる]宗教概念の存在に依存しない「推論の直観的なパターンが自然選択の産物として形作られた。このように「死後の世界というありふれた考えは、非直観的な逸話を通して人間の頭に埋め込まれるわけではない。すでに[頭の中に]存在している」のだ、人間の認知構造として、と言うわけだ。宗教とは、他の進化的な認知構造にうまく寄生するために文化の伝達の中で生き残る一連のアイディアのことだ。

宗教が進化的適応であるという議論の二番目は、宗教的な信念と儀式が、グループにコミットすることの高コストな[手間や労力がかかり適応度を下げる]シグナルだという主張である。他人の協力する意志を利用しようとするタダ乗り屋は識別される。というのもタダ乗り屋は、金を与えたり、多くの時間を宗教活動につぎ込んだり、儀式で進んで肉体を傷つけるような、フェイクするのが難しい高コストなコミットメントの顕示に関わらないからだ。このように宗教的な儀式やタブーは高コストなシグナルとして、文化的選択に基づいて集団内協力を促進する。行動経済ゲームでニュージーランドの匿名のキリスト教徒は明らかに多くをカナダのキリスト教徒に与えた。これは匿名のニュージーランド市民が同国民に与えるのよりも多かった。

宗教がどのように協力を促進するかという説明の一つは、大きな集団で観察されるような、霊魂や全てを見通す神を信じることは、自分が見張られていて、協調的な振る舞いは報われ、ズルをすれば罰されるという感覚を引き起こすことで、効果的に離反を防ぐからというものだ。このように道徳的な不正に対する超自然的な罰を人々が信じれば協力の意志は促進されるが、そのような罰への怖れは自然選択によって好まれた適応だ。この見解への支持は、同じ超自然的エージェントへのコミットメントが、大きな地理的範囲に広がり、異なる民族グループを含むコミュニティで、個人の行動を監視するコストを押し下げることができたことを示す研究から得られる。宗教的な向社会性は、大きな集団で協力の安定したレベルの進化を支える重要なメカニズムを提供したのかもしれない--互恵主義や評判への関心では不十分な状況下で。このようにズルを減らし、見知らぬ人への気前の良さを促進するのは、単なる宗教の集団的な側面ではなく、まさしく神への信仰である

副産物としての宗教

宗教の副産物説は二段階の議論に基づく。まず「宗教」は明確な境界や本質のない曖昧なカテゴリである。特定の信念や行動が宗教的か否かを決定するのは難しい。これは実体的な総体としての「宗教」のいかなる説明にとっても問題を引き起こす。副産物説はこの問題を、「宗教」という用語を明確な境界なしで、信念や行動の曖昧な集まりに言及するヒューリスティックな語として用いることで回避する。それは宗教の説明というよりもむしろ、宗教のあらゆる側面が一時に、歴史のある時点で誕生したという考えを否定している

第二に「神」や「永遠の命」のような概念は宗教のものと考えられているが、具体的な宗教的認知メカニズムは特定されておらず、副産物説はそれらの存在を予期しているわけでもない。たとえば神の概念から推論を引き出すことは、全てのエージェント[行為主体]概念から推論を引き出す助けとなる、マインドリーディングメカニズムを必要とする。このように神の概念は、実体的なエージェント[たとえば他者]の欲求や信念を認める標準的な能力[心の理論など]を、非実在的なエージェントまで拡張することに基づいている。

これらの認知機構のおかげで我々は他者の意識的な心理を推論し、意識的な心理を他者の意識的な心理に再帰的に埋め込むことができ、他者が何を考えているのかを考えることを可能にしてくれる。そこには不在の人間や、死んだ者の意図まで、あるいは空想上のキャラクターや超自然的エージェントまでが含まれる。宗教のために、あるいは神の表象のために専用化され、入力制限されたメカニズムを持ち出す必要がない。協力に関して、人間には多くの非宗教的で向社会的な認知構造がある。

超自然や宗教信念に関するこれら[の認知メカニズム]は互いに独立して進化して、そのような信念を持っているか持っていないかにかかわらず、人々の中で、まだ宗教を教え込まれていない幼い子供の中でさえも、同じように働く。

Beringらのような心理学的な実験や行動の計測は、一般に「宗教的な」信念や行動と考えられているものの認知的な基礎に関する有益な情報を与えてくれる。しかし機能から進化的な原因への[議論の]移行のためには、それらでは十分でない。よりあり得そうな見解は、我々が提案するものだが、全てというわけではないが、ほとんどの心理的要素は一般的な社会的相互作用の問題の解決のためにまず進化して、それから協力と同様に、神についての考えを含む宗教活動に取り入れられたというものだ

したがって宗教概念と信念は、道徳に関連した規範と価値の表現と正当化に動機づけられていて、またインスパイアされてもいるが、それはどんなグループのメンバー--チームスポーツでつきあった人々から、大学の学部メンバーまで--も結びつけることができる動機付けにも利用できる認知メカニズムに根ざしている。

この見解によれば、宗教はその起源において自然選択の結果として生まれたのではないが、選択の対象になりえて、観察されたバリエーションはいくらかの遺伝的な構成要素を持っていると仮定する。実際のところ宗教は、道徳的なアイディアを処理する安価な認知機構を提供し、グループの団結を作り強化する手段を提供するようだ。しばしば道徳は宗教なしでは成り立たないと主張されるように。

宗教ぬきの道徳?

一部の人々にとっては、宗教なしの道徳などあり得ない。他の人々にとっては、宗教は単なる道徳的直感の表れと正当化の一つにすぎない。宗教はいくつかの点で道徳と関連がありうる。道徳原理は神によって、祖先によって、あるいは聖人や神聖な人によって示される、従うべきモデルで決定される。あるいは神や祖先は人々が何をするかに注意を払うグループであると考えられている。このように人々は自分の道徳上の選択が決して自分だけのものではないと感じる。明示的な宗教信念と、宗教的直感の産物を明確に区別することは重要である。

たとえばBeringは非宗教的な問題であっても感情のような精神状態とプロセスが、たとえば飢えのような他のものよりも死後に継続しそうであると直観的に考えられるという実験的な証拠を示す。

Bloomは全ての人間が、我々「自身」が自分の体の所有者であると感じるが、自分と体は同じものでは無いと感じるという意味で、直観的な二元論者であると主張する。このように素朴心理学では体の死は個人性の終わりを意味しない。

その上、人間の推論は「見境のない目的論」--全ての物事に対して意図や意味を感じさせる能力--に特徴づけられているので、我々は自動的に、様々な出来事の説明としてエージェントを仮定する。これはしばしば神のような概念をとる。たぶんこのような傾向は宗教信念を「感染性」のあるものにするだろう。彼らは心の基本的な働きの多くに効率よく住み着くために、簡単に分散し、増殖するという点において。

宗教研究と道徳的直感研究のリンク

協力は、異なった文脈で規律違反者の処罰や規律遵守者の賞賛に用いることができる、一般化された直感的な善悪の概念を、人々が持つことを必要とする。ここで我々は当初、進化的適応としての宗教研究ではほとんど影響がなかった実験的、理論的文献を扱う:実験道徳心理学。……ここで我々は、道徳直感が宗教的バックグラウンドとは独立して働き、より重要なことに宗教的なインプットを必要としないという考えを示す一連の発見を提示する。実際にこの分野の研究のかなりが、道徳判断は、宗教と法習慣のどちらの明示的な指図からも比較的免疫があることを示している。

宗教学や、宗教の文脈外での道徳発達と道徳心理学には長い伝統があるが、初期の研究は幼児の道徳性の成熟の道筋、特に道徳行動と理性化に集中していた。しかしここ10年で直感の役割、特に善悪の判断(感情と心的状態の表象 mental state representationsを含む)の基礎となる認知と神経プロセスに関心がシフトした。いくつかの興味深い理論的な見解があるが、ここで我々は言語アナロジー linguistic analogy (LA)を取り上げる。というのもこれはユニバーサル性と文化的差異を考える際の具体的な概念的フレームワークを与えてくれるだけでなく、これまでのデータと整合性があると考えるからである。これは宗教が適応として進化したか、他の認知能力の副産物かの議論への新しい入り口を切り開いてくれる。要約すると、LAは我々の道徳心理学の構造、それから特にコミュニティの成熟したメンバーが道徳的な問題に対して用いる(無意識に働く)知識、そしてすべての子どもたちがそのような道徳能力を身につけるメカニズムに関する理論である。

この見解によれば、我々は他人の福利に関連して、行為主体の原因と意図の心理に対して働く一連の抽象的な原理ーー何人かが普遍文法にたとえた能力ーーが与えられている。LAは特定の原理が我々の種のすべてのメンバーに共有されているという強い予測を行う一方で、内容はバリエーションを受け入れる。おそらく言語におけるパラメータと同様のなんらかのセッティングによって形作られるのだろう。たとえば異なる手法と異なる集団で行われた様々な研究で、参加者は一貫して危害を引き起こす行動を、行動しないことによって同じ害を引き起こすよりも悪いと判断した。これはオミッションバイアス(省略バイアス)と呼ばれる区別だ。いくつかの研究では、一部の集団、特定の例ではオミッションバイアスを示さないかもしれないが、行動の省略が行動することよりも厳しく判断されるような逆転は滅多に観察されない。たとえばオランダは2001年に積極的安楽死と消極的安楽死のどちらも合法化する法案を通し、アメリカでは積極的安楽死が違法であるにもかかわらず、オランダ人はアメリカ人と同じくらい強いオミッションバイアスを示す。これは公的な道徳システムとしての法律が特定の行動への特定のガイドラインを果たすに過ぎず、そのような知識は素朴(folk)道徳直感に影響を与えたり変えたりできないことを示している。この見解によれば、そして上述したように、明示的な宗教コミットメントは法律に相当するようである。それは特定の行動への特定のガイドラインを提供するが、道徳直感システムからは分離されているようである。

結論

明示的な宗教性は、協調能力の根底にある道徳的直感に影響を与えることができないのだから、宗教は集団内協力のための究極的な源ではありえない。協力は宗教特有ではない一連の心的メカニズムによって可能となる。道徳判断はこれらのメカニズムに依存しており、人の宗教的バックグラウンドとは独立して働くようである。宗教は生物学的適応として起源しなかったが、グループ内の協力を助け、安定させる役割を果たし、そのため文化的選択のターゲットとなり得ただろう。宗教的なグループは非宗教的なグループよりも長く存続するようだ。将来的には、素朴な道徳直感と死後の世界、神、祖先に関連する直観的信念の関連を調べ上げるためのより実験的な研究が必要だ。多くの文化で宗教的な概念や信念が道徳感を概念化するスタンダードな方法になったようだ。すでに議論したようにこの関連は必須なものではないが、多くの人々はそうすることに慣れており、宗教を的にした批判は我々の道徳の存在への原理的な脅威と感じられるようだ

BOX3  未解決の問題

宗教思考と行動の基礎となる認知メカニズムのどれが宗教専用だろうか(そういう物があるとしたら)?そしてどれが他の知識の領域と共有されているのだろうか?
宗教思考と行動の媒体となる認知メカニズムは、どのように神経的に配置されているのか?
どんな範囲において宗教的なバックグラウンドは道徳に関係する行動に影響を与えるだろうか?(仮定的な状況に関する判断と対照的に)
子供たちはどのように宗教を獲得するだろうか?宗教が入力されるタイミングと本質はどんな物だろうか?
最初の宗教獲得は、それ以降の別の宗教獲得とは異なるだろうか?
特定の宗教行動は遺伝するだろうか?
宗教への遺伝的、文化的な関与はどのように共進化したか?
どのようにして適応主義的な見解と副産物的見解は統合できるだろうか?

宗教が適応か、他の適応の副産物かは種問題と同様の泥沼にはまりそうな気がする。結局のところ、適応の明確な定義がなく、便利な漠然とした概念として用いられているのだから。鳥の飛翔能力は一つの形質として長らく選択を受けてきたという点では適応と呼べるかもしれないが、飛翔のために進化したのではない様々な器官(羽や前肢、脳etc.)の副産物として起源したという点では副産物といえる。したがって宗教が適応か副産物かという議論は、宗教のために用いられる認知メカニズムのどれだけが宗教専用か、あるいは宗教のためにどれだけ調和して働くかという程度の問題になりそう。

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