無神論戦争 その2

やはりコインのブログ記事を翻訳。

アンドリュー・ブラウンが、宗教批判や無神論の推奨と科学教育を一緒にしておくと政教分離に抵触すると主張しているのに対して、コインやPZマイヤーズは科学教育なんてどれも宗教信仰と反することを教えるようなものだと反論している。本当はブラウンの記事も訳すべきなのだが面倒なので省略。
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どうやら、調停主義者の首魁アンドリュー・ブラウンは自身のブログで最近のガーディアンの記事よりもバカな議論を進めようとしている。我々無神論者は戦術に非常に慎重でいなければならない。ブラウンによれば、進化を承認することと無神論を同等に扱うならば、進化が学校でもはや教えることができなくなる状況を作るらしい。結局のところ、学校で無神論を教える事は宗教への侮辱に等しく、それはアメリカの学校では違法だ、ということらしい。

[以下抜粋]議論に入るために、無神論者が科学的な世界観を、信仰を持つ人よりも受け入れられるかどうかは知る必要ではない。キリスト教は少なくとも、宇宙でこれまでに起こった最も重要なこととして、少なくとも一つの奇跡を受け入れなければならないようだ。そして科学者がそれを拒絶するのは合理的だ。いずれにせよ、それは科学が世界を説明するよりももっと大きな事をするより大きな神話の全ての部分だ。そのような神話は議論で取り除くことができない。「しかし証拠はどこですか」「どうして科学者は奇跡を信じられますか」などなど。しかし問題はそこだ。新無神論者はそんなことには答えられないと考える。

我々が新無神論者は正しく、本物の誠実な科学者は無神論者以外の何者でもあり得ないと認めると考えてみて欲しい。もしそれが真実なら、科学そのものを教えることは憲法違反である。アメリカの公立学校で無神論を推進するのは宗教を推進するのと同じくらい違法だ。しかしアメリカの法廷はこれまで科学が宗教を否定するかどうか判断するよう求められてこなかった。実際、学校で進化や科学が教えられることの擁護者はその問題を避けるためにどんなことでもした。コインが軽蔑する「調停主義者」は、進化とキリスト教、科学と宗教に互換性があると言うためにあらゆる裁判に引き出された。IDが宗教教義であろうと無かろうと、無神論がそうであろうと無かろうと、もしジェリー・コインやPZやドーキンスや残りのその他が正しいと決定されたら、科学教育はアメリカの公立学校で憲法違反となるだろう。彼らは、要するに、自分自身をぶちこわした。

空想の世界に入り込んだと思うのはこう言うときだ。誰が進化を教えることが意図的に無神論を教える事だと考えるのか?PZマイヤーズとリチャード・ドーキンスを含め、そんな人にはあったことがない(実は二人にあったことがある。ブラウンとその友達マイケル・ルースだ。ルースはかつて私の研究が違法の無神論の推進を含むので、補助金を政府に返すよう書いた。)

実際には、それが素晴らしい問題で、世界のたくさんを説明し、たまたま真実であるから進化を教える。そして、たしかに進化を教えることは宗教を批判的に検証することを勧め、宗教信仰の拒絶に繋がることがあるかも知れない。しかし地質学、物理学、天文学を教えることだってそうだ。実際、おおかたの教育は信仰の拒絶に繋がる(統計はより教育を受けた人ほど宗教的でなくなることを示している)。物理学、天文学を教えること、人々が高等教育を受けることを、それが無神論を推進することになるからと言って我々は心配すべきなのか?法廷がそれに気付くかも知れないといつもビクビクしていなければならないのか?

確かにアメリカの法廷はバカかも知れない。しかしグズな最高裁でさえミスターブラウンよりも合理的だ。ブラウンが本当に言っていることは、いかなる種類の合理的な基準を推奨することさえも、あるいはどんな信念でも証拠が要求だという考えを推奨することも懸念しなければならないと言うことだ。彼は人々の口の中に無神論を突っ込むことと、考えることを教える事(それは付加的に、信仰を損なう影響を与えるかも知れないが)の区別に気付いていないようだ。

間違いなく、ルースとブラウンの両人は無神論をけなすためにどんなレトリカルな戦術でも用いるつもりのようだ。前回のルース/ブラウン組へのポストの最後で言った様に、ヤケクソの気配がある。彼らは科学者・無神論者の真剣な議論に参加するよりも、我々の”無作法な”トーン、そして想定上の、我々の無神論と進化の同一視が導く恐ろしい不測の事態について語る。

私はこれを繰り返す。ブラウンは理解できるはずだ。進化を教えることは、無神論を推奨することではない。科学的事実を推奨しているのだ。そして、どんな科学的事実の推奨でも信仰を壊すような付加的な影響を持つかも知れない。これは不可避だ。科学の流儀-合理性、証拠への依存-は、信仰の流儀-盲信と神のお告げへの依存-と徹底して、両立することなく対立する。どうしようもない。

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テンプルトン財団に反撃する

またまたコインのブログから。
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アメリカで多くの調停主義者の後ろにいるのはテンプルトン財団だ。この財団は故ジョン・テンプルトンの投資活動のおかげで船べり一杯に現金を積んでいる。彼らは科学と宗教の統一という「大問題」の議論に科学者を誘い込むためにその資金を定期的に使う(あなたがこの議論で「大問題」または「深い問題」という言葉を聞いたら、それが意味しているのは「答えようがない問題」または「意味がない問題」ということだと安心して欲しい。そしてその大きくて深い問題はようするに宗教だと考えていい)。テンプルトンは討論や公表される議論にビッグネームの科学者や世俗的な学者が関わることを好む。というのも彼らの存在は、その他の点では見え透いたうさんくさい事業に本物らしい雰囲気を添えるからだ。

我々の幾人かは反撃を始めた。テンプルトンのベンチャーに参加したり名前を貸すことを拒否している。最近の拒絶はこういうものだった。サイエンスライターのエドウィン・カートリッジは何人かの新唯物論的、原理主義的、好戦的な無神論者にテンプルトン財団のプロジェクトに協力を求めた。これまでにダニエル・デネットとアンソニー・グレーリングが答えた。

題名:唯物論について質問

デネット教授、私は科学ジャーナリストで、テンプルトン財団のプロジェクトの一環として、唯物論を調べています。まず私はその用語がどのような意味で用いられているか(というのも様々な意味があるようなので)、次に唯物論的な視点が我々の周りの世界(特に人間の本性)とどのように一致するか、あるいはしないかを理解したい。そのために私は科学者、哲学者、神学者を含む何人かの異なる専門家と話をしています。あなたが心の哲学と隣接した分野で広く執筆されているので、話を聞くのに良いだろうと思い、電話をしても良いかと考えたのです。もし私と話しても良いとお考えなら都合の良いお時間と電話番号をお教えください。どうぞよろしく。
エドウィン・カートリッジ

デネットの返答:

カートリッジ氏へ
私は唯物論について、それから宗教的なスポークスマンが一辺の根拠も無い主張で混乱させる継続的な試み-その唯物論は意義や倫理において障害となります-について言いたいことを言いました(例えば『Breaking the spell』を見てください)

私は同じ事を二度する必要を感じないし、あなたのインタビューに答えることでそれが私にとって重要な問題だという印象を与えたくありません。それはそうではない。もしあなたが科学者と哲学者と、そして言うなら、この問題の振り付け師の視点を研究しているというなら、私は振り付け師がこの問題についてどんな専門的なことを言えるのか知りたい。あなたが科学者、哲学者、占星術師と言ったらメールに返事もしなかったでしょう。私が返信した唯一の理由は、この問題の専門知識を持つ科学者と哲学者のコートの裾に神学者を結び付けようとするテンプルトン財団の試みに私が不賛成であると伝えるためです。

何年も前に、私は非常に優れた科学者を占星術師や他の新しいイカサマ師と対決させようという会議に出席するという過ちを犯しました。私が自分の狼狽から知ったのは、我々が反対者をどんなに木っ端みじんにしても、聴衆の多くが占星術師への尊敬を増す結果に終わると言うことでした。ある人は私にこう言いました。「あなた方科学者が一生懸命それを拒否しようとしているのは、何かあるからに違いないと想像しました」。そのようなプロジェクトに共謀して、居心地は良いですか?
ダニエル・デネット

A.C.グレーリングはこうだ

カートリッジ氏へ
メッセージをどうもありがとう。私はこれがあなたに直接向けられたものでないと分かってくださることを望みます。私はテンプルトン関連の問題には関わりません。私は宗教を科学と混ぜ合わせることで立派に見せようとするテンプルトン財団のプロジェクトに賛成することができません。これは天文学と占星術、医学研究とおまじないを混ぜ合わせるようなものです。そしてプロジェクトへの協力のために大金を使うことにも不賛成です。テンプルトンはどう見ても、宗教的な見解の宣伝組織です。正直にいえば、彼らが好む古風な迷信を支援するためにお金をつぎ込んで、宗教の疑問を科学の疑問と同じ種類、同じレベルであると見せかける--つまり混乱させて宗教の信用を保とうとする事に視線をとどめるべきではありません。これが私がテンプルトンに関わらない理由です。
アンソニー・グレーリング

それで、誰かこれらの返答を「無作法」と考える人はいるだろうか?カートリッジ氏が受けた宗教と科学に関するテンプルトン=ケンブリッジ・ジャーナリズム・フェローシップの説明は次のようなものだ。彼らの目的の説明に注意して欲しい。

ジョン・テンプルトン財団は2006年に、科学と宗教のダイナミックでクリエイティブな境界を調査する機会を与えるために、出版、放送、オンラインで活動する小集団のフェローシップの提供を開始しました。

クリエイティブな境界だけ?破壊的な境界について書きたい人もいるだろう?

無神論者の間で戦争勃発

遺伝学者ジェリー・コインのブログWhy evolution is trueの記事より
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タイトル:無神論は創造論の原因か?

時々私は進化に賛成する調停主義者が進化論者を創造論者より大きな敵と見なすことがあると思う。これは今週初めに私にとって明らかとなった。哲学者マイケル・ルースから不愉快なメールを受け取った。彼はふたつの点で私を非難していた。
1.私は哲学者ではないので哲学、宗教、神学について意見を述べる資格を持っていない。
2.私の反宗教活動は進化生物学を推進する大義に不都合だ。

宗教は本当に創造論の根本だ。それは私たちが信仰を握る手をゆるめるまで消えない。ルースのメールから二つの文を引用してみよう。「しかし実際には我々は科学の子供たちの魂のためにアメリカで戦闘中だ。私には誰がよりダメージを受けるのか分からない。あなたやあなたの仲間、あるいは[インテリジェント・デザインの指導者]フィリップジョンソンやその仲間。私には本当に。」

これには笑わせられた。ルースは[インテリジェント・デザイン運動を主導する]ディスカバリー財団のお気に入りの哲学者だ。ID[インテリジェント・デザイン]信者のために一働きしてくれると常に宛てにできるし、彼はこういう。「はいはい、あなたは本当に誤解されてます。私には分かります。トラブルをでっち上げているのは汚い無神論者です」。ルースはIDのプリマドンナ、ウィリアム・デムスキーと本を編集しディスカバリー財団のウェブサイトに投稿した。幸いにも、ほとんどの哲学者と進化学者はルースのことをまじめに受け取っていないが。彼は奇妙なほど信者たちを甘やかしている。彼の本『ダーウィニアンはクリスチャンであり得るか?』でイエスが銀河系内のあらゆる惑星で進化した生命に救済のメッセージを届けるという考えを広めようとした。

ルースはさらにトラブルを引き起こすのが好きだ。最近のインチキはガーディアン紙のオンライン版で[サイエンスライターの]アンドリュー・ブラウンとの記事のコラボだ。(ガーディアンはこの3日で三つの宗教支持、反無神論の記事を掲載した。彼らと何があったんだ?)[ウェブサイトへの]投稿はその尊大さと愚かさにおいて全く信じがたい程だ。ルースはケンタッキー州の創造論博物館を訪問したと報告している。彼はそこで神の啓示を待った。彼はその時、誤解された創造論者が本当はどんなものかを突然理解した。我々、汚い好戦的な無神論者は創造論者の立場になって、彼らがどこから来るのかを理解しようとしない。ブラウンによればルースはメールでこういった:

展示を見ているとき、…私は全てが正しいというクーン的なひらめきをえました。それは単なるひらめきだったが(フロイト派が真実だったとか、共和党が全てにおいて正しいというような)、この展示やパラダイムが人々にとってどのくらいの意味があるかを感じるのは面白い体験だった。

彼の結論は?

これを間違いだとして退けるのは愚かなことです。糞を食べる事は良いことだというのは[それもまた]間違っている。けれど普通ひとは、多くの人が創造論を信じる事を望まないので、反対側にいる我々もアイディアのためだけでなくて心理学のためにも気持ちを理解する必要がある。

[It is silly just to dismiss this stuff as false – that eating turds is good for you is [also] false but generally people don’t want to [whereas] a lot of people believe Creationism so we on the other side need to get a feeling not just for the ideas but for the psychology too.]

マジか?ルース自身、ケネス・ミラーやその他の有神論か有神論に親和的な科学者と、創造論が間違っていると示すためにドーバー裁判や初期の創造論裁判に協力しなかったか?それ[創造論批判]は我々が裁判で勝利するための方法ではなかったのか?多分、ルースの不満は、我々が科学者と同様に腰掛けの心理学者でなければならないということなのだろう。深く人の気持ちが分かるルースが習得したらしい、何かの心理学の。ブラウンも一致する。

それは、私が思うに、新無神論者、あるいは好戦的な無神論者とルースのようなダーウィニアン--無神論だが反宗教的でない--の重要な違いの一つだ。新無神論者は本能的に、創造論者の心理と考えを感じなければならないという考えに尻込みする。彼らにとって重要な点は、信者はバカで狂っていて間違っていると言うことだ。それならなぜ、小さくてあなたよりねじくれた心にこだわって自分の人生を浪費しようとするのか?

ああ、私はブラウンとルースの見解に反論して時間を無駄にしたくはない。というのもPZマイヤーズがPharyngula上で華麗に言ってのけているからだ。これはPZの古典とも言うべき投稿だ。彼の憤りが極致に達した後、雄弁にこう結んでいる。

私は[創造論者に]共感する。というのも彼らは偏狭な青銅器時代の神権政治のイカサマに目を奪われて、現実のスゴさに全く気付いていないからだ。しかし全く共感できない人々もいる。壮大なウソのモニュメントや、反科学、反合理的、究極的には反人間的な団体、子供たちが積極的に教育の機会を奪われている場所、不変の知的な悪に熱心な宮殿を守ろうとする知的な人々、ひどい無神論者が何もかもを壊していると不平を言おうとする人々に全く共感できない。そんな人間は消え去れ

最後は少し強いが、私はPZと不満、怒りを共有する。読者の反応、特にブラウン/ルースへの反応を見てほしい。ブラウンのウケが良くなかったと言えば十分だろう。ブラウンの最後の部分の論理がねじってあると指摘させてほしい。

しかし常に宗教は不合理だ、愚かだ、残虐だ、無知だと「新無神論者が」認定し続けるのは二重に自滅的だ。それは誰かを説得して宗教から手を引かせることにならない。むしろいくらかの全く奇妙な自己欺瞞を推進する。全ての人間の悪い特徴が宗教的なものだったら、私は宗教的ではないから、きっと私は信者の悪い点を全く持たないだろう。私はこれが時々無神論のスタイルの魅力を説明すると思う。

おいおい、一体誰が人間性の悪い面の全てが宗教的なものだとか、無神論者には悪いところがないなんて言ったんだ?それは単なる目くらましだ。それはルースとブラウンが、神と認識論的な信仰の主張のどちらにも十分な証拠が欠如していることに直面するのを拒否していることの反映だ。ルースとブラウンが無神論の実質的な議論に取り組まないことに私はかなりうんざりしている。そうする代わりに彼らは我々のトーンを繰り返し批判する。これはやぶれかぶれから生まれる戦術だ。動物行動学の研究者が転位行動と呼ぶ物だ-例えばその時、怒ったカモメは葉を攻撃する。

ルースのような人は哲学者ダニエル・デネットが言う「信仰への信仰」-教義が間違っていても、社会のためによいので進められなければならないという考え-にさいなまれている。私にはこれがひどく見下したものだと言うことが分かる。我々は多数の無神論者がいるヨーロッパの状況から、宗教を必要とせず、幸せで充実していて道徳的な人生を送っている人がいることを知っている。

更新:
EvolutionBlog でジェイソン・ローゼンハウスが創造論者に取り入ったルース自身の汚い経歴を記している。私はルースがIDの大物ウィリアム・デムスキーと公開トークをしていた事を忘れていたし、ルースがデムスキーの本で「科学への価値ある貢献をした」と表現されていたことを知らなかった。科学へ、だって??

神と科学は混ざらない

ウォール・ストリート・ジャーナルの記事より。執筆者は物理学者ローレンス・クラウス
このセッションはテンプルトン財団の後援によって行われたようだ。
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科学者としての私の流儀は無神論だ。つまり、私が実験を始めるとき、私は神や天使、悪魔が干渉しないと仮定する。だから世界の出来事についても無神論でなければ、私は知的に不誠実だと言うことになるだろう。
-JBS ホールデン(『事実と信仰』,1934)

先週、私はニューヨークシティで行われたワールドサイエンスフェスティバルでいくつかの刺激的なパネルディスカッションに参加する機会に恵まれた。もっともドラマチックな遭遇は「科学、信仰と宗教」と奇妙に題されたパネルで起きた。私は参加する理由がわからないと主催者に話した後、招集された。結局のところ、パネルは科学と占星術、あるいは科学と魔法ではなかった。なぜ科学と宗教なのか?

私は最終的に無神論者とラベルを貼られたパネリストの一人となり、もう一人は哲学者コリン・マッギンだった。反対側には信心深いカトリックの科学者たちがいた。生物学者ケネス・ミラーとバチカンの天文学者Guy Consolmagnoだ。マッギン氏は、たとえ誰もそれを証明できないとしても、サンタクロースが存在しないと仮定することは非常に合理的だと話すところから始めた。同様に、と彼は主張した。同じ論理を神の存在の想定へも適用することができる。

セッションのホストであった、やや宗教的な傾向があるリポーターのビル・ブレイクモアは「私はあなたが合理的な無神論者であると思います」と言いだして私を驚かせた。恐らく我らのホストは、『神は妄想である』のリチャード・ドーキンスや『信仰の終焉』のサム・ハリスのような書籍で成功した後に激しい攻撃の矢面に立たされたいわゆる原理主義的無神論者に応えていたのだろうと思う。これらの科学者は科学が神への信仰と相容れないと主張し、信仰を持つ人々から批判された。これは明白にあやまった主張だと、参加していた二人のカトリック科学者は証言した。また他方で、科学が神は妄想であると示唆するという議論は、科学は打ち破られるか宗教に取り込まれなくてはならない無神論的な敵であるという原理的宗教右派の見解を強めるだけだ、とも。

たまたま、私は様々な州の教育委員会で、進化を「敵としての科学」の見本と考える人々から進化生物学を守ろうとする役割をケネス・ミラーとともに何度も果たした。それらの原理主義者は科学が彼らの信仰を突き崩すというリスクを負うつもりはない。彼らは子供をそれらの知識から隔離しておこうとする。

観衆に対して、私は進化生物学を現実のものだと認めるのに無神論者である必要はないと言い、例として友人のケネスを指した。この言明は私を別の友人、ハリスやドーキンスから引き離すように見える。

だがそれは錯覚である。それは近年の多くの率直な無神論者=科学者=作家への誤認を反映している。ネイチャーは編集記で「無神論絶対主義者」は「文化的にも歴史的にも孤立している」と述べた。しかしこの告発は不公平である。ハリスやドーキンスが現代科学における信仰の実践者の矛盾を指し示すとき、ただ単に彼らは正直なだけだ。進化生物学者であり集団遺伝学の創始者であるJBSホールデンは科学が必然的に無神論的な訓練であると考えた。ホールデンが上手く描写したように、神や天使や悪魔が実験に干渉すると仮定していたら、人は科学的発見のプロセスを継続することなどできない。神をもちだすのは、当たり前のことだが、科学では見当違いだ。

物質界における科学の特筆すべき成功に直面して、多くの、いや実際にはほとんど全ての科学者ははっきりと、ホールデンがしたように振る舞う。すなわち彼らは科学の無神論をより一般的な無神論にも用いる。

ワールドサイエンスフェスティバルでのマッギンの指摘は、全く非の打ち所がないわけではなかったかも知れないが、確かに合理的だ。科学のプロセスは、ただ宇宙を作っただけという緩やかで漠然とした神の概念と互換性はあるかも知れないが、ほとんどの世界的な組織宗教の詳細な教義とは合理的な整合性がない。サムハリスは最近、彼を無神論絶対主義者と呼んだネイチャーに対して返答でこう述べた。「科学とキリスト教の和解は、物理学、化学、生物学、確率的推論に基づいた基本的な理解と、明白に馬鹿げた筏、鉄器時代の信念を調和させようとするようなものだ」

私が二人のカトリック信仰を持つ同僚に向かって、処女懐胎の奇跡はどうしたら基礎生物学と一致するのか尋ねた。私は最終的に、その聖書の記述はたんに誕生の重要さを強調するためだったのだろうと言う回答を得た。二人とも、この紛れもないカトリック神学の中心教義を率直に弁護しようとはしなかった。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で主張されている神の奇跡に関して、科学はただ単に本当に無神論的な世界観と一致しているだけだ。さらにこれらの信仰の各々の信者は、他の全ての信仰の神聖な教義に対しては無神論だ。キリスト教はコーランが宇宙の創造者の不謬の言葉を含むという主張を拒絶する。イスラム教とユダヤ教はイエスの神性を拒絶する。

科学的な合理性は無神論を要求しないが、神の存在に対する議論の基礎としてそれを用いること、そして処女懐胎のような奇跡の主張が自然に対する我々の科学的な理解と互換性がないと結論する事は、決して不合理ではない。

最後に、これらの問題が純粋な学問上の問題ではないと指摘する価値はある。イランにおける現在の危機は、宗教的ドグマにもとづいた世界と理性に基づいた世界の間の致命的な矛盾を明らかにした。おそらく、科学と宗教の非互換性について正直に述べることの最も重要な貢献は、人間の問題では--物質界のその他の部分と同様に--理性がもっとも良いガイドであると全く明らかにできることだろう。

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(イギリスの)子供の2/3は神を信じていない

テレグラフの記事より

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ティーンエイジャーは友人、お金、音楽、テレビさえ、宗教より大事だという。さらに、59%の子供は宗教が「世界にネガティブな影響を与える」と考えていることが分かった。調査によればティーンエイジャーの半分が祈ったことが無く、16%は教会に行ったこともなかった。調査はペンギンブックス社によって13歳から18歳までのティンエイジャー1000人を対象として、今週出版される論争的な小説『Killing God』にあわせて行われた。本のテーマは神の存在を疑う15歳の少女である。著者ケビン・ブルックスは次のように述べた。「私は、ティーンエイジャーの反応に驚くなんて言えません。私がKilling Godを書いた理由の一部は今日の若者の個人的な姿勢を明らかにしたかったからです。特に困難な人生、組織宗教、伝統的な神の概念について。古代宗教の道徳性はどのように今日の壊れた世界の悲劇や混乱と関係しているのか?そしてなぜ他の人がドラッグやアルコールを慰めとするのに、一部の人は神に助けを求めるのでしょうか?それらはちょうど私が熟慮したかった疑問です…そして私は答えを捜していたわけではありませんでした。」

調査では66%の子供が神の存在を信じず、55%の若者が宗教で悩んだことがない、60%が結婚式か洗礼式でしか教会に行かないとも答えた。3割が死後の世界を信じ、41%が死ぬときに体に何も起こらないと考えている。しかし1割は動物か他の人として生まれ変わると考えている。

英国国教会のスポークスマンは次のように述べた。
「彼らはその人生のステージで信じていることをよくわかっていません。多くが神を信じるかどうか分からないと答えていることから明らかなように。一方、この結果の多くは今日の若者の大きなスピリチュアリティを示しています。今日、教会は伝統的な形と並んで崇拝の新しい形に応えようと試みています。」

英国ヒューマニスト協会のハンナ・スティンソンは次のように述べた。
「それは若者が宗教を持たなくても、大人と同じようにポジティブな価値観を持てる事を示しています。宗教的な価値観としてしばしば宗教によって言及される”黄金律”、実際にはそれは人間が共有する価値観で全ての宗教と非宗教的なほとんど全ての文化に共有されているのですが、それは全ての主要な世界宗教よりも先に存在しました。」

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テレグラフの記事が何故か見えないのでデイリーメールへもリンク
デイリーの方が少し詳しい。それによれば上の数字に加えて
*47%が組織宗教には世界に居場所がない
*91%が自分が扱って欲しいと望むように他人を扱わなければならないと答えた。

ところでオタクの国日本の影響によって、イギリスにはこういう新しい崇拝の形が伝わっているようだが、国教会がどう考えているんだろう。