進化の運命:PZのレビュー

PZマイヤーズのかなり辛辣な書評を適当に抜粋。2007年4月。「科学と宗教」という議論の目的上、収斂を扱った途中の章について彼はスルーしている。だから本全体の価値がないといっているわけではない。

-+-+-+-+-
サイモン・コンウェイ・モリスの『進化の運命』(原題:Life’s Solution)を読んだ。この本は以前に触れており、かなりの懸念をもっていたが読み通すことを約束していた。私は彼の考えが好きではなかった。彼は考えを十分に表現していなかったのだと思っていた。だが彼の本を公平に扱って、私を納得させられるかどうかを見た。

それで私の意見:この本はインチキ(dreck)だ。

公平にいこう。彼の考えはいくらか改善されていると感じた。彼の書くものは活気が無く、扱いづらく、読み通すのが苦痛だと長いこと思っていた。地道に読むのもつらかった。この本で彼は、ちょっとばかり我慢できなくもない意見表明を達成できたと思う。……

これは何についての本だろうか?タイトルにすべてが表されている。コンウェイモリスは読者に二つの重大な論点を納得させようとする。

  1. 我々はユニークだ。不可能ではないが、生命が誕生する確率はとてつもなく小さい。我々が存在するのは奇跡だ。
  2. 我々は存在しなければならなかった。……一度存在したら、二足歩行で道具を使う人型生物は進化の必然的な結果だ。


ではなぜコンウェイモリスはそう考えるようになったのだろうか?慎重に証拠を考慮してその結論にたどり着いたと思えたら結構なことだが、そうは思わない。本のほとんどはまあ証拠についてだろうが、ひどく混乱していて、コンウェイモリスが持っているような生物学の知識を持っている者は誰も説得できないほど、納得しがたいスロッピーで選別的な思考のごちゃ混ぜだ。コンウェイモリスは宗教的な先入観とともにこの奮闘を開始して、支えとなるかもしれないちょっとした科学をつまみ食いしているのは明らかだ。彼は本気で「慈悲深き人格神の被造物としての人間」という副題をつけるべきだった。それが彼が明らかに正当化したがっている見解だからだ。彼の正当化はほとんどめちゃくちゃだ。個々の議論は十分明快だが、そしてかなり広範囲にわたって進化的収斂の検証を行うが、しかし彼の話はすべて根拠のない結論に縛られている。彼がストーリーの意味するところを説明しようとするたびに「それがどうした?!??」と中断してしまうような、単純な逸話の羅列だ。私は最後に教会に立ち入ったとき以来、これほどの不合理さ、穴だらけの議論、きわめて率直な愚かさにであったことがない。

たとえば最初の章でコンウェイモリスはinherency(邦訳では「内在性」)と呼ぶ重要な考えを導入する。彼はそれを正確に定義せず、その代わりチンパンジーと人間の遺伝的類似性について、そしてそのチンパンジーがゴーカートで楽しむことをおしゃべりする(「それがどうした?!??」)。それから彼は例を取り上げる。原始的な脊索動物ナメクジウオの脳を。

脳と言ってもあまりに単純な構造に拍子抜けするだろう……しかし分子レベルの証拠が示すところによると、ナメクジウオの脳は脊椎動物に見られる三領域に相当する領域に潜在的に分かれているのだ。このことは単純に見えるナメクジウオの脳に、脊椎動物の持つ各器官のひな形とでも言うべきものが内在していることをはっきり示している。つまり、ある意味ではナメクジウオには知性をうむ内在的素質がある、ということだ。

(それがどうした?!??)

SJグールドは、コンウェイモリスが「内在性」と呼んだものに別の用語を用いた。「回顧的戴冠」、すなわち過去を振り返って、当時はたいしたことがなかった特性に特別な地位を与えること。我々がクモから進化していたら、教授グモはビンの中のクモをつついてみて、知性への固有の潜在性が中大脳的神経節の組織の中にあると論じるだろう。その初期の脊索動物が脳の中に三部構造を持っていたとしても知性の前触れではない。それはのちの適応が収められることになる基本構造の気まぐれに過ぎない。

本の中核は、バクテリアからほ乳類から植物から基礎代謝系まで、収斂の多数の強烈な例をくわしくとりあげるいくつかの長い章で、この章の部分部分は実に全く合理的だ。いくつかのおもしろい例を掘り出す優れた仕事をしている。ああまたしても、問題は彼が収斂を、人間の運命に関する壮大な理論を支持する証拠だと見なしていることだ。そんなことない。ある特徴は単純な問題に対する最適解を示している。カメラアイだとか、穴掘り動物の太い四肢だとか。だがそれはすべての複雑な問題が一つの解に同じように収斂することを意味していない。ヒト型生物は完全に明らかに複雑な解だ。妥協と歴史的要因と偶然にまみれている。

コンウェイモリスは、どんな状態に対しても単一の可能な回答があるという彼の見解に反する証拠があることが、見えていないのだと思う。彼は痛ましいほどに違いを無視する。現代の例として北極と南極を比べてみよう。どちらにも巨大なほ乳類の捕食動物がいる。大型の鳥類は魚食を専門としている。このようなレベルでならある程度の類似性があると言える。だが北極では捕食動物はシロクマで鳥はオークだし、南極ではアザラシとペンギンだ。同じような環境、機会、圧力があったとしても、異なる生物相から始まれば異なる解法が生まれる。

(略)

最後から二つ目の章のタイトルは「進化神学は可能か?」(Towards a theology of evolution?)で、はっきりとコンウェイモリスが望んでいるものを表している。この章は「ダーウィン教の聖職者」と「遺伝原理主義」と「信心深い無神論者」への批判が詰め込まれている。彼らが無信仰者を侮辱したいときに、宗教用語を使い、強い宗教的な印象を与えるやり方は奇妙ではないだろうか?

彼は少なくとも率直に、彼の考えが創造神の存在と矛盾しないという主張を何とか押し通そうとする。でなければこの章全体が空疎なでたらめの見事な例になってしまう。私は「それがどうした」をページごとに言うハメになった。
-+-+-+-+-
もうしばらくレビューは続くがとりあえずここまで。

11章「進化神学は可能か?」について私自身が少々つっこんでおきたい。

コンウェイモリスは序章でこう述べている。

……口ぎたない罵詈雑言や高慢な謙遜に終始していたこれまでと違って、宗教的思いやりに満ちた会話ができるようになるだろう p28

では11章のコンウェイモリスの思いやりに満ちた議論をみてみよう。

いくら手品や手前勝手な議論や殊勝ぶった態度で急進的ダーウィン主義者たちが道徳原理をこっそり遺伝子の力を借りて持ち込もうとしても、今のミレニアム版ハンムラビ法典がゲノム地図に書き込まれているなどと考えるのはよほど面の皮の厚い人たちだけだろう。それでも、遺伝決定論の神話の数々は、還元主義の荒涼たる世界の中で、新たな政治課題に利用されつつある。中でも特に優生学。今や自然界は遺伝的な紙粘土のように扱うべきだなどという者もいる。私たちに与えられた世界にはそれ自体の高潔さや価値があるかもしれないという考えは、もはや失われてしまった。この生物圏はどうにでもできるのだという科学主義的な見方が優勢だ。p486-487

遺伝決定論、還元主義、優生学。いったい何なんだろう、このお約束の罵詈雑言の山は。1975年にウィルソンに向かって書かれた告発文にそっくりだ。いったい誰が「この生物圏はどうにでもできるのだ」などと言っているのか?そんな引用はないのもお約束。

さらに遺伝子工学への恐怖を表明

……小麦が遺伝的にいじくられ、まもなく豚の番が来る。その後に何が続くかと言えば、ほぼ間違いなく人間への応用だろう。

小麦も豚も自然には存在せず、遺伝的にいじくられた生物だということをなぜすっきり忘れてしまうのか、謎。

神学にはそれ相応の豊かさと繊細さがあること、また、ほんとうに私たちのためになるばかりか、ーー変な話だがーー科学では決して知ることのできない世界についても、実は神学が教えてくれるかもしれないという事に、急進的ダーウィン主義者は滅多に気づかない。どうやら神学が目のとろんとした地球平面論者たちのものではない事を全く認識していないようだ。p472

科学では知る事のできないどんな事を神学がどう教えてくれるのか?その説明はない。たぶん宗教の問題のひとつは、コンウェイモリスのような人であっても、それを擁護しようとする時、目がとろんとしてしまう事ではないだろうか。

遺伝子やミームについてのこのような見方をすることはとても重要である。というのも、分子(やミーム)の覇権を許していると、確実に人間性の荒廃への道を歩むことになるからだ。p486

「このような見方」が何を意味しているかは不明。集団遺伝学の論理やミーム概念を嘲笑することか、あるいは過度に単純化して読者に提示することだと思われるが。いずれにせよ、なぜ荒廃の道を歩むことになるかの説明は一切ない。

回復への道は?
この世のものはすべて私たちの気まぐれに任せて好きなようにしていいという、精神をむしばむ見方は……多くの人の考えでは、それは破壊への王道そのものだ。

なるほど、それは破滅に続く道かもしれない。だがその道を勧めているのは無神論者とは限らないようだ。E.O.Willsonはキリスト教右派の人々の環境問題意識の低さを懸念して本を一冊書いている。

科学には限界があることを想起する必要がある。私たちが有限な存在であること、そして私たちには決して知り得ないものがあることにも注意が必要だ。……もっと重要なのは、宇宙の構成が単に物理的な面ばかりとは限らないことを遅ればせながら認めることだ。p488-489

しかしなぜ、決して知り得ない事があると、そんなに自信満々に言えるのだろうか。まさにすかすがしいほどの自身過剰ではないだろうか。

そしてマイケル・ポランニーの発言を引用

……これがこの世界で道徳的責任を果たせる唯一の存在である私たちの天命につながっていると想定することは、経験の超自然的側面の一例として重要だ。この側面はキリスト教的な宇宙の解釈によって探求され、育成される。

つまり進化によって目的意識の感覚を持った種が出現したとするならば、必ず神学の主張をまじめに検討するようになるだろう。近年、科学的な世界観と宗教的直感の再統合につながる接点への興味が復活している。p491

驚く事に、コンウェイモリスは11章全体にわたって、かなり強い主張を行っているにもかかわらず、全く根拠を示していない。なぜ無神論あるいは急進的ダーウィン主義者が世界の退廃の原因になるのか一切説明はない。なぜキリスト教信仰が回復の手段として有効なのか、その説明もない。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中