Jonathan Haidtによる「リベラルと保守の道徳の起源」中編

私はこの五つが道徳精神の最初の草稿の最も優れた候補であると考えています。これらは少なくとも学ぶ準備がされているものだと考えています。しかし私の息子のマックスがリベラルな大学都市で育てば、この草稿はどう修正されそうでしょうか?そしてどのように私たちの60マイル南、バージニア州リンチバーグで生まれた子供と異なるようになるでしょうか?文化的バリエーションについて考える前に、異なるメタファーを試してみましょう。本当に五つのシステムが心で働いているなら、--直観と感情の五つの源が--それなら私たちは道徳精神が5チャンネルのオーディオイコライザーのように働くと考えることができます。そしてそれぞれのチャンネルは異なる値にセットすることができます。私の同僚ブライアン・ノセクとジェシー・グラハム、そして私はwww.YourMoral.orgでアンケートを採りました。これまで30000人がアンケートに答えました。あなたもそうすることができます。結果がここにあります。およそ23000人分はアメリカ人のものです。左側にリベラルの点数をプロットしました。右側が保守、真ん中が中道派です。青い線が危害に関する質問への人々の反応の平均点を示しています。

左からリベラル、中道、保守

左からリベラル、中道、保守


ごらんの通り人は危害とケアの問題を気にします。彼らは全体的にこのような声明に高い是認をあたえます。しかし、お気づきの通りリベラルは保守よりも少しそれを気に掛けます。線が下がっていますね。公正さについても同じです。しかしその他の三本の線を見てください。リベラルの点は非常に低いです。リベラルは基本的にこう言います。「いや、それは道徳ではありません。集団内の権威、貞潔さ、そんなものは道徳ではありません。」しかし保守的な人にとってその価値は上がります。リベラルは…ふたつのチャンネル、ふたつの道徳基盤を持つと言うことができます。保守派にはより多くの、5チャンネル、5つの道徳基盤があります。

我々はこれをあらゆる国で見ることができます。1100人分のカナダ人のデータはこれです。いくつかスライドをめくってみます。イギリス…オーストラリア…ニュージーランド…西ヨーロッパ…東ヨーロッパ…ラテンアメリカ…中東…東アジアと西アジア。そしてこれらのグラフ全てで内集団、権威、貞潔さに関して傾斜が急であることに気をつけてください。これはいずれに国でも危害と親切さについて意見の不一致があることを示しています。皆さんは…つまり我々は公正さについて議論をします、しかし誰でも危害と公正さが重要だと認めます。文化内の道徳論議の中心は内集団、権威、貞潔さについてです。

東アジア

東アジア

この問題はどう質問にすればいいか分からないほど強靱です。最近の研究のひとつでは、あなたは犬を飼おうとしていると想像してくださいと頼まれました。あなたはある犬種を選びました。その犬種について新しいことを学びました。あなたはその犬種が独立志向で、飼い主を平等な友人であると見なすと分かると思いますか?あなたがリベラルならば、「おお、そりゃいい」と言うでしょう。というのもリベラル派は「持ってきてちょうだい」と言うのが好きだからです。[笑い] あなたが保守的であったらそれはあまり魅力的ではありません。あなたが保守的ならその犬が家庭と家族にとても忠実で知らない人にすぐになじむことはないと分かります。忠誠は良いことです。犬は忠実であるべきです、と。しかしリベラル派にとってはその犬は共和党に指名されるためにそうしているように見えます[笑い]

あなたはこう言うかもしれません、OK、リベラルと保守の違いはあります。では他の3つの道徳基盤は何を作りますか?それらは外国人嫌いと権威主義と政教と主義のまさに基盤ではないですか?何がこのモラルを作りますか?何が彼らに道徳をもたらしますか?

答えは私が思うにヒエロムニス・ボスのこの驚くべき三連作「The Garden of Earthly Delights」に含まれています。最初のパネルには想像の瞬間が描かれています。全ては秩序立てられています。全ては美しい。全ての人間と動物はそうせよと定められたことをし、いるべきところにいる。だが世界の習わしは変わります。★[We get every person doing whatever he wants, with every aperture of every other person and every other animal.] 皆さんの一部はこれが60年代的だとお考えになるかも知れません。[笑い] しかし60年代は必然的に70年代に変わります。もちろんボスはこれを地獄と呼びました。

それでこの三連作、この3つのパネルは秩序が腐敗する傾向があるという時を越えた真実を描写しています。社会的エントロピーの真実です。しかしこれがキリスト教の喜びを伴う奇妙な問題を持つ想像の一部であると思わないように。同じストーリー、同じ進展が数年前にエルンスト・フェールとサイモン・ゲヒターによってネイチャーで発表された人が共有されたジレンマを演じると述べた論文にもあります。

あなたがお金を他人に渡すゲームがあります。ゲームの各々のラウンドで彼らは共通の箱にお金を入れることができます。実験の管理者はそのお金を二倍にし、プレイヤーの間でそれを分けます。これは様々な環境問題に類似した素晴らしい例です。その問題では私たちは他人に犠牲を払うよう要求します。彼らは自分自身の犠牲から利益を得られるわけではありません。しかしあなたにとっては他の人の犠牲は望ましいです。そして誰にでも同様のただ乗りの誘惑があります。そこで最初に起こることは、、人々は最初に合理的な強調から始めます。これは全て匿名で行われます。参加者は持ち金の半分を配ります。しかし彼らはすぐに気付きます、「他の人は十分に協力していない。私はカモになりたくない。協力したくない」。協調は急速に衰え、合理的な協力からゼロへと向かいます。

しかしここで、ここでトリックがあります。フェールとゲヒターは7ラウンド目で参加者に告げました。「ちょっと良いですか、新しいルールです。あなたが貢献していない人を罰するために少しお金を使いたいなら、そうしても良いですよ」。そう聞くとすぐに協力が始まります。それは急上昇します。協力は上昇しつづけます。協調の問題の解決について明らかにした多くの研究があります。罰は本当に協調を助けます。良心に訴えるだけでは十分でありません。罰は本当に助けとなります。たとえ恥、ばつの悪さ、ゴシップだけだったとしても大きなグループの中で人を動かすのにある種の罰を必要とします。最近の研究ではある状況で宗教が、あるいは神、人々に神を考えさせることがより協調的、より社会的な行動を取らせることを示唆します。

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