The Greatest Show on Earth

9月にイギリスで出たリチャード・ドーキンスの新著” The Greatest Show on Earth”の第一章からの抜粋。TIME ONLINEに掲載されたもの。
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あなたが古代世界への情熱を伝えたいと願っているローマ史とラテン語の教師だと想像してみてほしい。オウィディウスの哀歌やホラティウスの頌歌、キケロの雄弁さで示されたラテン文法の力強い秩序、ポエニ戦争の戦略の精緻さ、ユリウス・カエサルの手腕、そして後の皇帝の享楽的な豪奢を。それはたいへんな仕事だし、時間、集中と献身を必要とする。

そのうちあなたの貴重な時間が無学な人(ignoramuses:ラテン学者としてignoramiと言わないだけの分別があるでしょう)の一団のわめき立てによってしきりに奪われ、クラスの注意がそらされることにあなたは気づく。彼らは強力な政治的支援、そして特に財政支援を受けて、あなたの生徒をローマがまったく存在しなかったと飽くことなく説き伏せようとする。ローマ帝国は存在しなかった。世界は丸ごと現在の記憶を持ったまま作られた。スペイン語、イタリア語、フランス語、ポルトガル語、カタロニア語、オック語、ロマンシュ語:これらの言語とその方言は突然期せずしてそれぞれ切り離された存在となり、ラテン語のような前身と何の関連もなくなる。

あなたはすべての関心をすばらしい古典研究と教育の仕事に捧げる代わりに、ローマ人は存在したという主題を守るために時間とエネルギーを注ぐよう強いられる:そんなことと闘うのにそんなにも忙しくなければとあなたに涙を流させるような、無知の偏見の博覧会からの防衛に。

このラテン教師の空想があまりにあり得ないと思うなら、もっと現実的な例がここにある。より近代の歴史の教師だと想像してほしい。組織だった、資金豊富な、強力なホロコースト否定論の政治グループによって、あなたの20世紀ヨーロッパの授業がボイコットされたり妨害されたり混乱させられたりするところを。架空のローマ否定論と違いホロコースト否定論者は実際に存在する。彼らは声高で、表面上はもっともらしく、問題に精通していると見せかけるのに長けている。彼らは少なくとも一つの強力な現代の国家の大統領によって支持されているし、その中にはローマカトリック教会の聖職者の一人も含まれている。想像してみてほしい。ヨーロッパ史の教師として「論争を教えろ」という挑発的な要求に絶えず直面することを。それからホロコーストは存在せず、それはシオニストのでっち上げ屋によって作られたという「代替理論」に「平等な時間」を与えるよう要求されることを。

ファッショナブルな相対主義の知識人は絶対の真実はないという主張に相づちを打つ:ホロコーストが起きたかどうかは個人の信念の問題だ。すべての見解は等しく妥当で、等しく「尊重」されなければならない。多くの科学教師の立場は今日、いっそう悲惨だ。彼らが生物学の中心的でガイドとなる原理を教えようとするとき、率直に歴史的な文脈の中に生命界を置こうとするとき--それはつまり進化だが--、彼らが生命の性質そのものを調査し説明するとき、彼らは悩まされ、妨害され、煩わされ、脅しつけられ、仕事を失う恐れさえある。少なくとも彼らの時間はことあるごとに無駄になる。親からの脅迫的な手紙を受け取り、教化された子供たちのあざけりの薄笑いと腕組みに耐えることになる。彼らは「進化」という語を組織的に消されたか、「時間をかけた変化」を削除された州公認の教科書を配られる。かつて我々はこの種の出来事を奇妙なアメリカ的現象だと笑いそうになった。

イギリスとヨーロッパの教師は今、同じ問題に立ち向かっている。部分的にはアメリカの影響のため、しかしかなりの部分は教室で伸張するイスラム教のために--「文化多元主義」への公的なコミットメントと、人種主義者と考えられることへの恐れによってそそのかされて。

しばしば、正しくも、高位の聖職者と神学者は進化を問題と見なしておらずこの問題に関して積極的に科学者を支援すると言われる。これは多くの場合真実だ。私もオックスフォード司教で現在のハリス卿との二度の喜ばしい協力の経験によって知っている。2004年に私たちはサンデー・タイムスに共著記事を書いた。その結語はこのようなものだった:「今日では議論は何もない。進化は事実であり、キリスト教徒の視点からは神の偉大な行いの一つである。」最後の文章はリチャード・ハリスによって書かれたが、私たちは残りのすべての部分に同意した。2年前にはハリス司教と私は首相、トニー・ブレアに共同で手紙を書いた。

[手紙では著名な科学者と7人の司教を含む聖職者がエマニュエルシティ・テクノロジーカレッジにおける進化の教育への懸念と「信仰の位置」に対して警報を表明した] ハリス司教と私は急いでこの手紙を組織した。覚えている限り手紙の署名者は私たちのアプローチに100%同意した。意見の不一致は科学者からも聖職者からもなかった。カンタベリー大司教は進化を問題と見なしていなかったし、法王も(古人類学上の転機に人間の魂が注入されたという怪しいぐらつきを加えたが)、教育ある聖職者と神学教授もそうだ。

The Greatest Show on Earthは進化が事実であることの議論の余地のない証拠にかんする本だ。それは反宗教を意図した本ではない。私はすでにそれを[”神は妄想である”で]した。これは別のTシャツで、もう一度元のTシャツを着る場所ではない[it’s another T-shirt, this is not the place to wear it again.]。

進化の証拠に注意を払った聖職者と神学者は反対をあきらめた。一部はしぶしぶに、リチャード・ハリスのような一部は熱心に、しかし不幸な無学な者以外のすべての人は進化の事実を受け入れるよう要求された。彼らは神がプロセスの始まりに腕をふるったと考えるかもしれないが、おそらくそれからのプロセスの進展には関与しなかった。彼らはたぶん神が最初に宇宙のクランクを回し始めたと考えるだろう。そして最終的に我々が役割を果たすことになるちょっとした深遠な目的のために、調和した自然法則と物理定数の一揃えによって誕生の儀式を挙げたと考えるだろう。

しかし場合によっては不承不承に、そのほかは喜んで、思慮深く理性的な聖職者と女性は進化の証拠を受け入れる。我々がしてはならないことは悦に入ってそれを当然だと思うことだ。司教と教養ある聖職者がそれを受け入れるから、会衆もまねるのだから。

ああ、ほんとうに世論調査にはたくさんの反対の証拠がある。40パーセント以上のアメリカ人は人が他の動物から進化したことを否定し、そして我々が--それに他のすべての生命も--1万年以内に神によって作られたと考えている。この割合は英国ではまだそれほど高くないが、それでも気がかりになるほどには大きい。それは科学者の懸念と同じくらい教会にとっても問題であるはずだ。

この本は必要だ。進化を否定する人のことを、「歴史否定者」と呼んでいる。彼らは世界の年齢が数十億年ではなく数千年だと信じ、人は恐竜と歩いたと信じている。繰り返すが、彼らはアメリカの人口の40パーセント以上を構成している。この数字はいくつかの国ではより高く、他ではより低いが、40%はちょうどいい平均だろう。私は時々歴史否定者を40パーセンターと呼ぶ。

聡明な聖職者と神学者に戻ると、彼らが遺憾に感じている反科学的ナンセンスとの戦いにもう少し力をつぎ込んだらすばらしいのだが。進化は事実でありアダムとイブは存在しなかったと認める一方で、あまりに多くの伝道師が軽率に説教壇に立ち、道徳やアダムとイブの神学上の見解を演説する。もちろんアダムとイブが実際には存在していなかったと一度でも言うことはない!

もし不服を申し立てれば、彼らは純粋に「原罪」や無垢の価値[virtues of innocence]に関する「シンボリックな」意味だったのだと抗弁する。もちろん言葉を文字通り受け取るほど愚かではない、と見下したように付け加えるかもしれない。しかし聴衆はそれを知っているだろうか?会衆席にいる人や、祈りのマットに座っている人は、聖書のどの断片が文字通りで、どこがシンボリックだと考えるのだろうか?教育を受けていない信者が理解できるほどそれは簡単なのだろうか?かなりの場合答えは明らかにノーだ。混乱が生じるのも無理はない。

司教の皆さん、それについて考えてみてほしい。牧師殿、慎重になってほしい。あなたがたはダイナマイトで遊んでいるのだ。爆発するのを待っている誤解をもてあそんでいるのだ。もし対処しなければ起きるべくして起きるとさえ言えるかもしれない。公衆の面前で話すとき、是は是と、非は非となすように大きな注意を払うべきではないのか?罪に陥らぬため、すでにとても広く好まれている誤解に立ち向かい科学者と科学教師に熱心で積極的な支持を与えるべきではないのか?歴史否定者は私が捕まえようとしているうちの一人だ。しかし、多分より重要なことに、私は歴史否定論者ではなくて、少しは理解している人や議論をするのに十分な準備ができていない人を武装させることを望んでいる。

進化は事実だ。筋の通った疑問を越えて、深刻な疑問を越えて、情報に基づく健全な知性的な疑問を越えて、疑う余地無く、進化は事実だ。進化の証拠は少なくともホロコーストの証拠と同じくらい(ホロコーストには目撃者がいることを考慮してさえも)強力だ。我々がチンパンジーのいとこであり、サルとは若干遠いいとこであり、ツチブタやマナティーとはもう少し遠いいとこで、バナナや蕪はさらにもう少し遠いいとこで、それから…というのは明白な事実だ。
これは事実である必要はなかった。それは自明的な、トートロジー的な、あるいは言うまでもないような真実ではなかった。そして大部分の人が、教育を受けた人たちさえも、事実ではないと考えたときさえあった。進化は事実である必要はなかった、しかしそれは事実だ。進化を支持する証拠があふれ出ているから私たちはそう知っている。進化は事実で、私の本はそれを例示している。標準的な科学者でそれを否定する者はいないし、公平な読者はそれを疑う本を閉じはしないだろう[no unbiased reader will close the book doubting it.]。

なぜ、それなら私たちは「ダーウィンの進化論」について話すのか。「理論」を譲歩[concession]だと考える創造論者--歴史否定者や40パーセンター--のそれらの信念に偽りの安心を与えて、贈り物や勝利を手渡してしまうのか?進化は地動説と同じ意味で、理論である。どちらの場合も「単なる理論」というように「単なる」が使われなければならない。進化が「立証されていない」という主張に対しては、証明とは科学者が疑いの目で[仮説を]見るよう強いられること指す概念だと答えよう。著名な哲学者は科学ではどんなものも証明されないと私たちに言う。

数学者は証明することができる--ある厳しい見解によれば、数学者はそれができる唯一の人々だ--が、科学者ができる最高のことは、どれだけ懸命に反証しようと試みたかを示すことだけだ。月が太陽より小さいという議論の余地のない理論さえ、ある種の哲学者の満足感にとってみれば、ピタゴラスの定理が証明されるのと同じやり方で証明することができない。しかしそれを支持する証拠の膨大な蓄積は、それを「事実」だと認めないのは衒学者以外であればおかしいと感じるほど強力だ。同じことは進化にも言える。進化はパリが北半球にあるのと同じ意味で事実だ。

詭弁家[logic-choppers]が街を支配しているけれど、いくつかの理論は理にかなった疑問を乗り越えており、我々はそれを事実と呼ぶ。とても精力的に、徹底的に、あなたは理論を反証しようとする。その攻撃に耐えきったなら、常識的に適切に事実と呼ばれる状態にその理論は近づく。

我々は犯罪が起きたあと現場に登場する刑事のようなものだ。殺人犯の行動は過去の彼方に消えている。刑事には自分の目で犯行を目撃できる望みはない。刑事が持っているのは残された痕跡だけだ。だがそこには多くの真実がある。足跡、指紋(最近ではDNAフィンガープリントもある)、血痕、手紙、日記があるのだ。[The world is the way the world should be if this and this history, but not that and that history, led up to the present.]

進化は避けようがない事実だ。我々はその驚くべき力と単純さ、美しさを賛美すべきだろう。進化は我々の中にあり、我々の周りにあり、我々の間にあり、そして永劫の岩の中に刻み込まれている。ほとんどの場合我々は眼前で起きている進化を観察できるほど長生きしないのだから、事件の後に犯罪の現場にやってきて推理を働かせる刑事の喩えを再訪することになろう。科学者を進化の事実へ導く推論の助けは、あらゆる時代、あらゆる法廷でこれまでに使われ犯罪を立証したどんな目撃証言よりもかなり豊富で、かなり説得的で、ほとんど反論の余地がない。理にかなった疑問を越えた証明?理にかなった疑問?それは史上もっとも控えめな表現だ。

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一月くらいかけてチビチビ読んでいたがもういいや、飛ばした部分があるが出してしまおう。現物は400ページあって思ったより遙かに分厚かった。興味のある部分だけ斜め読みした感じでは、創造論批判(宗教一般の批判ではない)があちこちに出てくる。リチャード・フォーティは「ターゲットを外している」と書評していたが…。

この本に関連して翻訳されたインタビュー記事など
SEED誌によるインタビュー by optical frogさん
Macleans.caによるインタビュー by Kumicitさん
9/24 公開日が違っていたので変更、翻訳へのリンクを追加

「社会生物学に反対する」へのウィルソンの反論

http://www.nybooks.com/articles/9003
1975年12月11日にNYRに掲載された。批判の元の手紙はこちら
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私はエリザベス・アレンと15名の共同署名者による虚偽の声明と告発に抗議するために手紙を書いた。私の本『社会生物学』へ直接向けられたこの手紙は署名者が誤って政治的なメッセージの本だと断定したことに基づく公然とした党派主義的な攻撃である。声明の中の主な断定は虚偽の申し立てか歪曲だ。署名者によって取り上げられた最も重要な点で、私は彼らの主張とは正反対のことを述べた。今日まで、科学的および一般向けジャーナルで本書をレビューした科学者の誰も、そのような意味で、あるいはその他のあらゆる重要な意味で誤解はしなかった。アレンらは社会生物学を次のように特徴付ける:「1910年から1930年代にかけてのアメリカで、断種法の制定と制限的な移民法の制定、そしてまたナチスドイツでガス室の設置に繋がった優生政策の重要な基盤となった」。私はこの見苦しい、無責任な、全く間違った告発に憤慨している。

アレンらはその告発で社会生物学から文の断片を選び、私の個人的・社会的偏見を表すという主張のために結び付けている。しかしその断片の解釈でさえ正確ではない。署名者は例えば、私を奴隷制は「人間社会で自然であるように思われる、と言うのも生物界ではそれが普遍的だからだ」と述べたように告発した。しかし私はそんなこと言ったことはない。本では奴隷制度はアリと人だけに起きたと述べた。そしてその二つのグループの間の習慣の差異は明確にされている。1975年6月のサイエンティフィックアメリカンのこの問題に関する私の記事は、以下のように全く違う表現をしている:

アリの奴隷制は私たちの種にとって何か教訓となるだろうか?おそらくならない。人の奴隷制度は大多数の人間社会の道徳システムに強く反する不安定な社会制度である。アリの奴隷制は、非奴隷制の類似種よりいくらか成功するかどうかも判断が難しい特定の種だけで見つかる遺伝的適応である。奴隷制のアリは行動の進化のはっきりとした面白いケースを提供する。しかし人間行動とのアナロジーはいかなる道徳的、政治的教訓を引き出すためにもあまりに遠くにありすぎる。

アレンらはドブジャンスキーの次の文章、「ある意味で人の遺伝子は人間の進化において全く新しい非生物学的、または超個体的エージェント、文化にその優位性を譲り渡した」につづけて私の文「その正反対が真実であり得た」を引用することで私をずるがしこい遺伝主義者としようとする。実際にはドブジャンスキーの引用に続く私の14行の文章のほとんどは技術的な内容で、次のように続いた:「2,3の社会で[共通の]行動形質が欠如していることを、形質が環境的に形作られていて遺伝的な基盤がない決定的な証拠として示すことは妥当ではない」 。私が意味するところはより小さい技術的な点に関連しているのだが、このように、この省略によって大きく歪められた。

段落全体を読めば私は全体的な見解において、歪められたバージョンで示された正反対の位置よりも、ドブジャンスキーとかなり近い位置にいることが分かる。

私は読者に、アレンらの記事が私の本の実際の声明に反対して言及している他の全ての部分を、実際に声明がなされた正しい文脈でチェックするよう求める。読者はほんの一部しか一致していないと分かると思う。そして私が本当に意味しているところについて疑念が全て取り払われると確信している。アレンらが私に罪をかぶせようとした重大な告発はこのような物だ:「ウィルソンは社会問題に対する責任から彼らを解放することで、その研究が社会制度の強化に役立った生物学的決定論者の長いパレードに加わる」。私はそんなことはしない。事実、私は他のところで全く正反対のことをした。10月12日のニュヨークタイムズマガジンの記事で、私は躊躇なく本の科学を超えて社会生物学の含意に対する個人的な見解を議論した。私の結びの声明は次のようなものだ:

社会生物学の危険な罠を強調するときが来た。それは継続的な警戒によってのみ避けられる。罠とは「である」から無批判に「べきである」が引き出される倫理の自然主義的誤謬だ。人間の本性の「である」の大部分は更新世の狩猟採集時代の遺産だ。どんな遺伝的なバイアスが提示されても、それは現在と未来の社会においてのどんな継続的な習慣の正当化にも用いることができない。私たちのほとんどは急速に変わる私たち自身が作る新しい環境で生きるのだから、そのような習慣の追求は悪い生物学になるだろう。そして全ての悪い生物学のように、それは災厄を招く。例えばある状況の下で、対立するグループと戦争を行う傾向は、おそらく我々の遺伝子の中にあるだろう。それは新石器時代の我々の祖先では有利だったが、現在は世界的な自滅を引き起こすかも知れない。長い間、可能な限り多くの健康な子供を作る事は安全への道だった。だが飽和している現在の世界の人類集団の中では環境災害への道だ。我々の原始的な古い遺伝子は、将来多くの文化的変化の積み荷を運ばなくてはならない。まだ知られていない程度まで、人間の本性はより進んだ利他主義と社会正義に適応できると我々は信じる-と、我々は主張する-。遺伝的バイアスは乗り越えることができ、情熱は避けたり他に向け直され、倫理は変わった。契約を可能にする人間の能力はより健全でより自由な社会を達成するために用いられ続けることができる。それでも心は無限に柔軟ではない。人間社会生物学は探求され、その発見は心の進化的な歴史を辿る我々が持つ最高の手段として考慮されなければならない。困難な探求の先頭では究極のガイドは私たちのもっとも深く、現在のところほとんど理解されていない感覚に違いない。間違いなく、歴史に無知である余地はない。[Yet the mind is not infinitely malleable. Human sociobiology should be pursued and its findings weighed as the best means we have of tracing the evolutionary history of the mind. In the difficult journey ahead, during which our ultimate guide must be our deepest and, at present, least understood feelings, surely we cannot afford an ignorance of history.]

ニューヨークタイムズマガジンの記事は8月にエディタに送られた。その後の[アレンらの]手紙が準備中であると知っていれば、この見解をアレンらに教える事ができた。そして社会生物学の含みに対する彼らの見解について、議論の機会を求めることもできたはずだ。

しかし、長い間記事の署名者の数人と親しかったという事実にもかかわらず、そして二人はハーバード大学で私と同じ建物を共有していたにもかかわらず、それが印刷される三日前まで手紙の存在を知らなかった。アレンらの行動に、虚偽を生み出すだけでなく不当に個人を傷つけ、脅迫を通して知的なコミュニティの健全性にとって重要な、自由な探求と議論の精神を減少させる、ある種の独善的な自警主義を表すよう感じるので、私はこの最後の点を強調する。
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”社会生物学”に反対する

以下の文章は1975年11月13日にニューヨーク・ブックオブレビューに掲載された。エドワード・ウィルソンの『社会生物学』が序章と最終章で人間の行動の進化について述べたことに対して、16人の署名者がいくつかの社会的、政治的、科学的理由から非難した。いわゆる社会生物学論争の最初の一撃。今となっては遠い過去の議論になってしまったが、科学史の中ではそこそこ重要だと思うので訳してみた。原文はこちらウィルソンによる返答もついでに。
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125年前のダーウィンの自然選択の理論以来、新しい生物学的、遺伝的知識は社会的、政治的方針の進展に重要な役割を果たしてきた。「適者生存」の語を作り出したハーバート・スペンサーからコンラート・ローレンツ、ロバート・アードリー、そして今のE.O.ウィルソンまで、人間行動のほとんどの重要な特徴の第一要因は自然選択であると宣言されてきたことがわかる。これらの理論は人間の行動・社会の決定論的な視点にたどり着いた。この「生物学的決定論」は、遺伝理論とデータがある種の社会問題の原因を説明できるという主張にも見られる。例えば20世紀初めの優生学者ダヴェンポートは犯罪やアルコール中毒のような「異常な」行動は遺伝的な基盤を持つと主張した。より最近では知能の人種的な差異が遺伝的な原因を持つというアーサー・ジェンセンやウィリアム・ショックレーらの主張がある。

このような考えが登場する毎に、彼らは新しい科学的な知識に基づいたと主張した。そのたびに強い科学的な議論がそれらの理論の不合理を示しても彼らは死ななかった。これらの決定論理論の再発の理由は、彼らには社会階級、人種、性に基づくグループの既得特権と現状へ、遺伝に基づいた弁護を与える一貫した傾向があることだ。歴史的に、大国や支配グループはこれらの科学界の産物を用いて彼らの権力を維持し、拡張しようと努めてきた。例えばジョン・ロックフェラー卿はこういった。

大企業の成長は単なる適者生存だ…それは単に自然と神の法則が働いているだけだ。

これらの理論は1910年から1930年代にかけてのアメリカで、断種法の制定と制限的な移民法の制定、そしてまたナチスドイツでガス室の設置に繋がった優生政策の重要な基盤となった。これらのカビの生えた議論を復活させようとする最新の試みは、新しい分野の創造であると根拠無しに主張されている社会生物学である。今年の夏、我々はE.O.ウィルソンの本『社会生物学:新たな総合』の広告の波と賞賛のレビューに曝された(NYR,8月7日のC.H.ウォディントンのものなど)。賞賛にはニューヨーク・タイムズの一面記事の以下のような声明も含まれる。

社会生物学は、人間の他人に対する行動の多くも…手の構造や脳の大きさと同じように進化の産物であるかもしれないという革命的な含みを持っている。

このような広告は「世界の中の我々の位置を理解しようという試みのブレイクスルーの一歩手前にいる(NYR,6月27日)」というような断定に対して信用を与える。彼以前と同様、ウィルソンの”ブレイクスルー”は社会の科学的研究に厳格さと視野をもたらそうとする試みである。しかしウィルソンは以前の生物学的決定論者を反証不可能な仮説を作る「弁護的な方法(先入観を支持する事実を意図的に選んだ)」を用いたと告発することによって、自身と切り離そうとする。彼は豊富な新しい情報を用いてより強固な科学的アプローチを取ると主張する。我々はこの新情報は人間の行動とほとんど関係がないと考える。そしておそらく客観的、科学的アプローチは実際には政治的な仮定を隠し持っている。このように、”人間の本性”の不可避な結果であるとして現状の新たな弁護が提出された。人間の行動についての彼の推測を生物学的な核心に結び付ける試みにおいて、ウィルソンは論理的あるいは事実的な[人と動物の]連続性に対するいかなる主張も退けるいくつかの戦略と策謀を用いている。

社会生物学の27章のうち最初と最後の章だけが人間に関し、その間の25章は主に動物、特に昆虫に集中する。このようにウィルソンは「遺伝子の道徳性」と題された最初の章と、「社会生物学から社会学へ」と題された最終章の二つのコラム的生物学の間に500ページを置く。しかしウィルソンの客観性の主張は、最終章が先行する章の事実と理論から論理的・必然的に導かれる程度に完全に基づいている。

社会生物学の読者の多くが、これが本当であると納得させられるのではないかと我々はおそれる。しかしウィルソンの連続性の主張は次のような理由のために誤りである。

1) ウィルソンは行動や社会構造を”器官”-その高い適応価のために存在する遺伝子の表現である-とみなす。洗脳について話すとき、例えば彼は「人間は洗脳するのが理不尽に簡単だ」と主張する。したがって「従順遺伝子」が存在しなければならない。同様にウィルソンは「悪をもたらす遺伝子」について話し、人間が知的で[自然]選択的な利点を考慮できるので悪をなすと主張する。同様の議論は「同性愛遺伝子」や「創造性、起業家精神、運転や精神的スタミナ」の遺伝子についても当てはまる。しかしそのような遺伝子の存在の証拠はない。このようにウィルソンにとって存在する物は適応であり、適応である物はよい物であり、したがって存在するものはよい物だ。しかしウィルソンが社会問題のような現象と向かい合うことを要求されると、彼の説明的フレームワークは驚くほど融通が利く。そのような行動は不適応で、たんに進化することができなかったと言うような説明で気まぐれに却下される。つまりそのような社会問題は我々の道徳コードが古いからかも知れない。と言うのもウィルソンによれば我々は「狩猟採集社会のメンバー」と同じだけ単純な「定型化されたコード」によって動くからである。外国人嫌いは社会進化と足並みをそろえることに一致した過ちを代表している[Xenophobia represents a corresponding failure to keep pace with social evolution]。私たちの「グループ間の反応は…いまだに粗野で原始的だ」。

このアプローチはウィルソンが現代の行動を選別的に適応または「自然」だと認めることを許し、現在の社会秩序を正当化する。適応と不適応の定義の唯一のウィルソンの基礎は彼自身の選別だ。ウィルソンは「弁護的アプローチ」を拒絶し科学的客観性を要求すると同時に、彼自身の”人間の本性”への推測を強化する。すなわち多くの種類の人間行動が遺伝的に決定されているという、彼の証拠からは導かれない立場を。

2) ウィルソンのもう一つの戦略は”そうであるかも知れない”ことから「そうである」への信念のジャンプだ。例えば彼は人間以外の行動から人間の行動へ議論をなめらかに移行しようとするとき、二つを区別する要因:つまり文化に直面する。もちろんウィルソンはそれが問題だと知っている。彼はドブジャンスキーの「極端な環境主義の正統的な見解」を提示する。

文化は遺伝子を通して受け継がれない。それは他者から学ぶことによって獲得する…。ある意味で、人の遺伝子は人間の進化において全く新しい非生物学的、または超個体的エージェント、文化にその優位性を譲り渡した。

しかし彼は「正反対が正しいこともあり得た」と言って文章を終える。そして突然次の文章で「人類学的遺伝学の必要」を要求して正反対が真実になる。言い換えると我々は文化が遺伝子を通して受け継がれるプロセスを研究しなくてはならない。このように、読者にこの種のジャンプを求める遺伝的な説明はウィルソンの好みである。

3) ウィルソンの人間以外の行動の研究分析は、彼に人間行動の理解の基盤を与えられるか?進化理論に基づく”自然の連続性”への訴えは十分ではない。進化的な分析が動物行動の説明を提供する一方、動物の行動と人間の社会の間の理論的な関係を何も確立しない。しかしウィルソンは集めた動物の証拠を利用するために、その種の接続を必要とする。ウィルソンの動物と人間の行動を結び付けようとする巧妙な方法の一つは、動物社会の特徴を説明するために人間社会からのメタファーを用いることだ。例えば昆虫の個体群において描写的なフレームワークのために「奴隷」と「カースト」、「スペシャリスト」と「ゼネラリスト」といった伝統的な比喩を用いる。このように彼は人と動物社会のアナロジーを進めて、二つの行動パターンの間に同じ基盤があると信じ込ませようとする。そのうえ、奴隷制度のような制度は生物界で”普遍的”であるので、人間社会でも自然であると思い込ませようとする。しかしメタファーと前提とされているアナロジーは証拠の欠如を覆い隠すことができない。

4) ウィルソンが人間以外から人間の社会にジャンプするときに直面するもう一つの困難は、アドホックな議論だ。例えばウィルソンが協調する生得的生物学の中に大きな問題がある。もしグループ内の社会構造がほんの数世代で急速に変わるなら、遺伝要因はどのように行動をコントロールできるだろうか?ウィルソンはもちろん大きな柔軟性と人間の行動の急速な変化を否定しない。しかしウィルソンは、標準的な集団遺伝学によれば観察された変化にとってこの期間は短すぎると認める。彼はその代わりに経済学から借用した「乗数効果」を持ち出す。彼はこの効果を、どのようにして小さな遺伝的変化が限られた時間の中で非常に拡大されるかを示すために用いる。しかしこの乗数を持ち出すいかなる基盤も、ウィルソンは提示しない。ウィルソンの説明の重要な点は全く推論に基づくままだ。さらに彼は行動のための遺伝子が存在すると言う証明されていない仮定に依存する。

5) ウィルソンの”人間の本性”に関する主張のほとんどは、客観的な観察に基づいておらず(人間の行動の普遍性にも、動物の社会を通しても)、思弁的に再建された人間の先史時代に基づく。この再建は[男性は]狩猟をし、女性は家で子どもの世話をし子どもと野菜を集めるというような(「人間の性行動や家庭生活の詳細のほとんどはこのような基本的な分業から簡単にたどり着く」)領土主義のおなじみのテーマで、特に集団間の戦争と大量虐殺の長所を強調している。しかしこれらの議論はかつて起こり、歴史学的、人類学的な研究によって反駁された(A. Alland, The Human Imperative or M. F. A. Montagu, Man and Aggressionを参照せよ)。

我々に残されたものは科学的な証拠がない人間の本性に関する理論だ。そしてそれはE.O.ウィルソンが住む世界の社会秩序に極めて類似した世界観を守るものだ。我々は人間の行動に遺伝的な要素があることを否定しない。しかし人間の生物学的普遍性は戦争や、女性の性的搾取や、交換媒体としてお金を使うことのような非常に可変的な習慣よりも、食べる事や排泄、眠ることのような、より一般的な性質での中でより多く見つかるだろうと疑っている。ウィルソンの本が我々に示すのは環境の影響(例えば文化的な伝達)だけでなく、研究者個人の社会階級の偏見を切り離すことの莫大な困難さだ。ウィルソンは社会問題に対する責任から彼らを解放することで、その研究が社会制度の強化に役立った生物学的決定論者の長いパレードに加わる。

我々がそのような過去の理論の社会的政治的影響を鑑みて、強く反対しなければならないと感じる。それが人間行動の議論に科学的基盤を与えるからでなく、生物学的決定理論の新しい波を感じさせるために「社会生物学」を真剣に取り上げなければならない。

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著名な署名者は次の通り
医学生エリザベス・アレン[筆頭署名者] ブランダイス大学
医学者ジョナサン・ベックウィス、ハーバード大学
心理学者スティーブン・コローヴァー、MIT
生物学者デイヴィッド・カルヴァー、ノースウェスタン大学
生物学者スティーヴン・ジェイ・グールド、ハーバード大学
生物学者ルース・ハバード、ハーバード大学
人類学者アンソニー・リーズ、ボストン大学
生物学者リチャード・ルウォンティン、ハーバード大学
教師バーバラ・ベックウィス
他に医者・医学生など7名
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たいへんツッコミどころが多い批判だと思うが、しかし現在でも同様の批判を見かけることがある。

Jonathan Haidtによる「リベラルと保守の道徳の起源」中編

私はこの五つが道徳精神の最初の草稿の最も優れた候補であると考えています。これらは少なくとも学ぶ準備がされているものだと考えています。しかし私の息子のマックスがリベラルな大学都市で育てば、この草稿はどう修正されそうでしょうか?そしてどのように私たちの60マイル南、バージニア州リンチバーグで生まれた子供と異なるようになるでしょうか?文化的バリエーションについて考える前に、異なるメタファーを試してみましょう。本当に五つのシステムが心で働いているなら、--直観と感情の五つの源が--それなら私たちは道徳精神が5チャンネルのオーディオイコライザーのように働くと考えることができます。そしてそれぞれのチャンネルは異なる値にセットすることができます。私の同僚ブライアン・ノセクとジェシー・グラハム、そして私はwww.YourMoral.orgでアンケートを採りました。これまで30000人がアンケートに答えました。あなたもそうすることができます。結果がここにあります。およそ23000人分はアメリカ人のものです。左側にリベラルの点数をプロットしました。右側が保守、真ん中が中道派です。青い線が危害に関する質問への人々の反応の平均点を示しています。

左からリベラル、中道、保守

左からリベラル、中道、保守


ごらんの通り人は危害とケアの問題を気にします。彼らは全体的にこのような声明に高い是認をあたえます。しかし、お気づきの通りリベラルは保守よりも少しそれを気に掛けます。線が下がっていますね。公正さについても同じです。しかしその他の三本の線を見てください。リベラルの点は非常に低いです。リベラルは基本的にこう言います。「いや、それは道徳ではありません。集団内の権威、貞潔さ、そんなものは道徳ではありません。」しかし保守的な人にとってその価値は上がります。リベラルは…ふたつのチャンネル、ふたつの道徳基盤を持つと言うことができます。保守派にはより多くの、5チャンネル、5つの道徳基盤があります。

我々はこれをあらゆる国で見ることができます。1100人分のカナダ人のデータはこれです。いくつかスライドをめくってみます。イギリス…オーストラリア…ニュージーランド…西ヨーロッパ…東ヨーロッパ…ラテンアメリカ…中東…東アジアと西アジア。そしてこれらのグラフ全てで内集団、権威、貞潔さに関して傾斜が急であることに気をつけてください。これはいずれに国でも危害と親切さについて意見の不一致があることを示しています。皆さんは…つまり我々は公正さについて議論をします、しかし誰でも危害と公正さが重要だと認めます。文化内の道徳論議の中心は内集団、権威、貞潔さについてです。

東アジア

東アジア

この問題はどう質問にすればいいか分からないほど強靱です。最近の研究のひとつでは、あなたは犬を飼おうとしていると想像してくださいと頼まれました。あなたはある犬種を選びました。その犬種について新しいことを学びました。あなたはその犬種が独立志向で、飼い主を平等な友人であると見なすと分かると思いますか?あなたがリベラルならば、「おお、そりゃいい」と言うでしょう。というのもリベラル派は「持ってきてちょうだい」と言うのが好きだからです。[笑い] あなたが保守的であったらそれはあまり魅力的ではありません。あなたが保守的ならその犬が家庭と家族にとても忠実で知らない人にすぐになじむことはないと分かります。忠誠は良いことです。犬は忠実であるべきです、と。しかしリベラル派にとってはその犬は共和党に指名されるためにそうしているように見えます[笑い]

あなたはこう言うかもしれません、OK、リベラルと保守の違いはあります。では他の3つの道徳基盤は何を作りますか?それらは外国人嫌いと権威主義と政教と主義のまさに基盤ではないですか?何がこのモラルを作りますか?何が彼らに道徳をもたらしますか?

答えは私が思うにヒエロムニス・ボスのこの驚くべき三連作「The Garden of Earthly Delights」に含まれています。最初のパネルには想像の瞬間が描かれています。全ては秩序立てられています。全ては美しい。全ての人間と動物はそうせよと定められたことをし、いるべきところにいる。だが世界の習わしは変わります。★[We get every person doing whatever he wants, with every aperture of every other person and every other animal.] 皆さんの一部はこれが60年代的だとお考えになるかも知れません。[笑い] しかし60年代は必然的に70年代に変わります。もちろんボスはこれを地獄と呼びました。

それでこの三連作、この3つのパネルは秩序が腐敗する傾向があるという時を越えた真実を描写しています。社会的エントロピーの真実です。しかしこれがキリスト教の喜びを伴う奇妙な問題を持つ想像の一部であると思わないように。同じストーリー、同じ進展が数年前にエルンスト・フェールとサイモン・ゲヒターによってネイチャーで発表された人が共有されたジレンマを演じると述べた論文にもあります。

あなたがお金を他人に渡すゲームがあります。ゲームの各々のラウンドで彼らは共通の箱にお金を入れることができます。実験の管理者はそのお金を二倍にし、プレイヤーの間でそれを分けます。これは様々な環境問題に類似した素晴らしい例です。その問題では私たちは他人に犠牲を払うよう要求します。彼らは自分自身の犠牲から利益を得られるわけではありません。しかしあなたにとっては他の人の犠牲は望ましいです。そして誰にでも同様のただ乗りの誘惑があります。そこで最初に起こることは、、人々は最初に合理的な強調から始めます。これは全て匿名で行われます。参加者は持ち金の半分を配ります。しかし彼らはすぐに気付きます、「他の人は十分に協力していない。私はカモになりたくない。協力したくない」。協調は急速に衰え、合理的な協力からゼロへと向かいます。

しかしここで、ここでトリックがあります。フェールとゲヒターは7ラウンド目で参加者に告げました。「ちょっと良いですか、新しいルールです。あなたが貢献していない人を罰するために少しお金を使いたいなら、そうしても良いですよ」。そう聞くとすぐに協力が始まります。それは急上昇します。協力は上昇しつづけます。協調の問題の解決について明らかにした多くの研究があります。罰は本当に協調を助けます。良心に訴えるだけでは十分でありません。罰は本当に助けとなります。たとえ恥、ばつの悪さ、ゴシップだけだったとしても大きなグループの中で人を動かすのにある種の罰を必要とします。最近の研究ではある状況で宗教が、あるいは神、人々に神を考えさせることがより協調的、より社会的な行動を取らせることを示唆します。

親は重要か?

サイエンティフィックアメリカンの09/07/08の記事より
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1998年にジュディス・リッチ・ハリスは「 The Nurture Assumption:Why Children Turn Out the Way They Do / 子育ての前提:子供たちがそうするようになる理由」(邦題:子育ての大誤解)を出版した。本は典型的に仮定されているよりも親は重要ではない、少なくとも子供の振る舞いを決定すると考えられているほどではないと挑発的に主張した。その代わりにハリスは子供の仲間集団がより重要であると主張した。子育ての大誤解は拡張、修正されて最近再版された。サイエンティフィックアメリカンマインドの編集者ヨナ・レーラーはハリスと彼女の批判者について、アイディアの進歩について、教師が両親より重要な理由について話をした。

サイエンティフィックアメリカン・マインド:フロイトは有名なことに子供の問題を親のせいにしました(特に母親に厳しかった)。10年前の影響力のあった本、『子育ての大誤解』であなたは親がほとんど無実で、[子供の]仲間がもっと重要な役割を演ずると主張しました。あなたに本を書かせたものは何ですか?

ジュディス・リッチ・ハリス:それははっきり言ってフロイトではありませんでした。すべての宗派の心理学者は、スキナーのような行動主義者でさえ、子供がうまくいかなかったらどんなことでも親に責任があると考えました。私が本を書いた意図の一つは親を安心させることでした。私は子育てがそれほどまでに難しく、不安を引き起こすようなことではないと彼らに知って欲しかった。子供を育てるにはいくつもの異なる方法があり、ひとつのやり方が他のやり方よりもうまくいくという納得できる証拠はありませんでした。

しかし私の主な動機は科学でした。私が大学生のために子供の発達について教科書を書いて過ごした間、私は親に子供の個性を形作る大きな力があるという信念を疑ったことがありませんでした。(これは今私が「子育ての前提:nurture assumption(『子育ての大誤解』の原題)」と呼ぶ信念です)私がついに疑いを持ち始めて、より細かく証拠をみたとき、愕然としました。大部分の研究はそれを無意味にするようなひどい傷がありました。そしてより厳格な方法を用いた研究は前提を支持しない結果をもたらしました。

マインド:反応はどうでしたか?

ハリス:最初の反応はひどいものでした。心理学の教授たちはそれを読む機会を得る前に意見を述べるよう依頼されたので、伝聞に基づいて述べました。彼らは「ハリスは莫大な証拠を無視した」と答えました。しかし私が無視したという証拠を示すよう迫られたとき、私が本の中で厳しく分析したのと全く同じ種類の研究を示しました。また彼らは、まだ発表されていないが、発表されるとハリスの間違いを証明する研究があるとジャーナリストに話しました。それらの未発表の調査を探し出す私の試みは二番目の本(No Two Alike)に書かれています。

時が経ち、教授たちは落ち着きました。おそらく私が学術誌にも発表していたので何人かは私に耳を傾けはじめました。私の研究は現在、多くの心理学の教科書で引用され、大学の講義で使われています。もちろん大部分の発達心理学者はまだ私に同意しません。しかし彼らは少なくとももう一つの見解があると認めています。研究手法の若干の前進もありました。私が小言を言ったからではなく、個性に対する遺伝的な影響を認識したためです。

例えば子育てに誠実である親たちが勉強に誠実である子供を持つ傾向があることを示すのに、それはもはや(子育てだけにそれを帰すのは)十分ではありません。

この相関関係は、子供たちが両親から学んだことの結果でしょうか、あるいは両親から受け継いだ遺伝子の結果でしょうか?一貫して適切にコントロールされた研究は第二の説明を支持します。実際に生物学的親族の個性の類似性は環境よりもほとんど遺伝に起因します。養子は個性の点で養父母に似ていません。私は特に遺伝子に興味があるわけではありません。しかし要点は、それが考慮されなければならないと言うことです。子供が環境に何をもたらすか分からない限り、我々は環境が子供にどんな影響をもたらすか理解することができません。

マインド:なぜこの考えがそれほど論争的になると思いますか?つまり、なぜ我々は両親が重要でなければならないと確信しているのでしょう?

ハリス:それは文化の一部です。大事にしてきた文化的神話を疑うことは危険です。ほとんどの人が理解していないのは、異なる文化が親の役割について異なる神話を持っていると言うことです。両親には子供がどのようになるかを決定する大きな力があるという確信は、じつはむしろ最近の考えです。

20世紀中頃になるまで、普通の親はそれを信じていませんでした。私は文化が変わる前の1938年に生まれました。当時子育ては非常に異なる中身を持っていました。両親は子供の希望を満足させるために自分自身の便宜や快適さを犠牲にしなければならないとは考えていませんでした。子供たちの自尊心を励まさなければならないとは考えていませんでした。実際には多すぎる関心と褒めることは子供を甘やかしうぬぼれさせることになるかも知れないとしばしば考えました。家庭のルール違反に対しては体罰が用いられました。父親はほとんど育児に参加しませんでした。自宅での彼らの役割は規律を管理することでした。これらは全てここ70年で変わりました。しかし変化には期待されたような影響力がありませんでした。

人々は相変わらずです。体罰が減ったにもかかわらず今日の大人は祖父母と同じように攻撃的です。賞賛と身体的な愛情が増えたにもかかわらず、彼らはより幸せでも、より自信を持っているわけでも、より精神的に健康というわけでもありません。それは幼児の発達理論をテストする面白い方法ですね:何百万もの親を説得して理論に従って子供たちを育てさせ、それから座って結果を見ます。それで、結果が出てきました。彼らの理論は支持されていません!

マインド:あなたの考えは本を書いてから変わりましたか?

ハリス:変わったと言うより拡大しました。いくつかの穴を塞ぎました。『大誤解』の初版が出てから数年後に、その本で提唱されている理論(グループ社会化理論)が不完全であると気付きました。それは社会化ーー子供たちが文化に受け入れられる行動、技術、態度を得る方法ーーの良い説明を提供しますが、個性の発達については上手く説明できません。子供たちは社会化され、行動は同性の仲間たちのようになります。しかし個性の違いはなくなりません。というよりもむしろそれは広がります。

グループ社会化理論は、例えば同じ家で育てられ同じ仲間集団に属する一卵性双生児でさえ異なる個性を持つことを説明していません。それは私が次の著書で取り組んだ難問です。拡張された理論は人間の心がモジュール式であり、いくつかの構成要素からなるという考えです。それぞれのモジュールは特定の仕事を果たすために進化の過程で作られ、そして三つの異なるモジュールが社会的な発達のために関係しています。最初は親子関係に対処するモジュール。ふたつ目は社会化。みっつ目のモジュールによって、子供は自分自身何が得意かを知ることによって仲間との競争で成功することができます。

マインド:あなたは子供の発達にとって教師の重要性を強調します。どのように、我々は幼児発達のこの新しい理論を公共政策に応用できるでしょうか?

ハリス:私は子供が家の中で(そこは両親の力が及ぶところです!)、家の中ではどのように振る舞うべきかを学ぶこと、そして家の外で、家の外ではどう振る舞うべきかを学ぶという証拠を集めました。それで子供の学校での振る舞いを改善したいなら、例えば彼らをより勤勉でより攻撃的でなくするようにしたいなら、家庭環境の改善は最高の方法ではありません。必要なのは学校を基盤とした干渉です。そこでは教師に力があります。優秀な教師は子供の全てのグループに影響を与える事ができます。

教師の最大の難問は、子供のグループが対立するふたつの派閥(学校と勉強に親和的なグループと、学校と勉強に対立的なグループ)に分かれないようにすることです。そうするとふたつのグループの違いは広がります。親学校グループはより良くなり、反学校グループはより悪くなります。40人の子供を持つ教室は20人の教室よりも分裂しやすいかも知れません。それは学生が何故小さなクラスでより上手くやるかを説明するかも知れません。しかしクラスの大きさに関係なく、一部の教師には彼らを教室に結び付けておくコツがあります。

アジア圏の教師はアメリカ人よりもそれが得意なようです。そしてこれは私がアジアの子供が学校でよりよく学ぶ理由のひとつであると思います。間違いなく文化の違いがあります。が、我々は彼らの教育方法とそしてここでどのように応用するかを学ぶことができたでしょう。自発的にサブグループに分裂する子供の傾向は、私立か公立かにかかわらず不利な家庭から進学することを支援するプログラムの、一定でない成功率を説明することができるかも知れません。このプログラムの成功率は数で決まります。異なる家庭環境から来る一人か二人の子供がクラスにいるだけなら、彼らは行動と態度を他の子供たちと同化させます。

しかしそれが五人か六人になると、彼らだけのグループを作り彼らの行動と態度を持ち続けます。オバマ大統領は科学を然るべき位置に戻すと約束しました。私はその然るべき位置が研究所である必要はないと理解するよう望みます。それは学校でもあるのです。