宗教=道徳ではなく、生物学=道徳ではないだろうか

マーク・ハウザーによるエッセイ
Edgeより。原文の併記はあやしーところだけ。
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多くの人にとって、道徳的な人生を送ることは宗教的な人生を送るのと同じ事だ。数学、科学、政治学の教育を受けた学生が1=1と、水=H2Oと、バラク・オバマ=合衆国大統領と知っているのとまさに同じように、宗教教育を受けた人は宗教=道徳であると知っている。

この関係はシンプルでもっとも[pleasing]であるように思えるかもしれないが、少なくとも三種類の解釈が可能だ。

第一。もし宗教が道徳の源なら、宗教教育が欠如している人は道徳を失い罪深き衝動の海でさまようだろう。宗教教育を受けた人々は、安定した海路を示す海図であるだけでなく、定型化された道徳コンパスによるガイドでもある。彼らはなぜある行為は道徳的に好ましく、ほかの行為は道徳的に好ましくないのかを知っている。

[First, if religion represents the source of moral understanding, then those lacking a religious education are morally lost, adrift in a sea of sinful temptation. Those with a religious education not only chart a steady course, guided by the cliched moral compass but they know why some actions are morally virtuous and others are morally abhorrent.]

第二。おそらく誰でも、何が道徳的に良くて何がいけないのかを理解する基準のエンジンを持っている。けれども宗教的なバックグラウンドを持つ人々は行動を洗練させ、利他主義を促進し、他人を害することを避けるための追加のアクセサリーを持っている。

第三。確かに宗教は道徳的なインスピレーションを与えるが、同時に宗教が推奨すること全てが道徳的に賞賛されるわけではない。思いやり、寛容や真の利他主義を教える宗教に私たちは喝采を送ることができるけれど、しばしば特定の宗教”チーム”のための自殺を賞賛することで民族浄化を推奨する宗教へ、嫌悪や道徳的な憤慨を表明することもできる。

多くの人が宗教から引き出す意義や共同体意識に関して、今のところ異なることを意味ものは私の主張の中にはない。私が区別しようともくろむのは、宗教が、あるいはより一般的には道徳教育が、道徳的推論の源を唯一--たぶん究極的に--象徴しているという議論だ。道徳教育はしばしば利己主義によって動機づけられているが、道徳コミュニティの中で何かすることがあるとすれば、もっとも良いのは多元性ではなく単一性を説くことだ。人間性に反する我々の残虐性は、育ちを責めよ。生まれではなく。そしてより一般的には教育された偏り[educated partiality]を責めよ。我々が共有するはずの人間性を認められない全ての者を、そして思いやりを実践するための非宗教的な推論を用いられない全ての者をひとつのカテゴリーに押し込めることを、それは私たちに許してしまうのだから。

[None of my comments so far are meant to be divisive with respect to the meaning and sense of community that many derive from religion. Where I intend to be divisive is with respect to the argument that religion, and moral education more generally, represent the only — or perhaps even the ultimate — source of moral reasoning. If anything, moral education is often motivated by self-interest, to do what’s best for those within a moral community, preaching singularity, not plurality. Blame nurture, not nature, for our moral atrocities against humanity. And blame educated partiality more generally, as this allows us to lump into one category all those who fail to acknowledge our shared humanity and fail to use secular reasoning to practise compassion.]

宗教が我々の道徳的洞察の源でないなら--そして道徳教育が偏りを(したがって道徳的な破壊行為も)教えこむポテンシャルを持つなら--インスピレーションの源のほかの候補は何だろうか?

この疑問への一つの答えは科学界のまさかというような一角からやってくる:心の科学
近年の発見は全ての人間が、老いも若きも、男も女も、保守派もリベラル派も、シドニーに住んでいようがサンフランシスコだろうがソウルだろうが、無神論者であっても仏教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒でも、高卒でも大卒でもそれ以上でも、自然からの贈り物、道徳的な人生を送るための生物学的コードを授けられていることを示唆する。

このコード、道徳的普遍文法は、何が道徳的に正しくて何が間違っているかを判断する無意識の原理ひと揃いを私たちに与えてくれる。それは偏りが無く、合理的で、非感情な能力だ。それは私たちが誰を助けるべきかや、誰を傷つけて良いかを指図はしない。そうではなくて、どんなときに他人を助けるべきか、どんなときに他人を害するべきでないかを直感的に判別する方法の、抽象的なルールを提供する。それは冷静に、公平に働く。では証拠は何だろうか?

[This code, a universal moral grammar, provides us with an unconscious suite of principles for judging what is morally right and wrong. It is an impartial, rational and unemotional capacity. It doesn’t dictate who we should help or who we are licensed to harm. Rather, it provides an abstract set of rules for how to intuitively understand when helping another is obligatory and when harming another is forbidden. And it does so dispassionately and impartially. What’s the evidence?]

我々の研究の成果のいくらかを経験するため、モラルセンステストを見てほしい。まず性、年齢、国籍、教育の度合い、政治と宗教のスタンスが尋ねられる。それからログインすると、特定の行動が道徳的に禁じられているか、容認されているか、義務的かの判断を参加者に求める一連のストーリーがある。

ストーリーのほとんどは本物の道徳的ジレンマを含んでいる。なじみのない架空のケースは、ありきたりのストーリー(たとえば妊娠中絶、安楽死、寄付)よりも優れている。架空のケースについては、事前に経験していたり、明確な道徳論議をしたことのある人がいないからだ。我々が作った全てのストーリーで法律や聖典は何のガイドにもならない。

たとえば病院で五人が生存のためにそれぞれ別の臓器を必要としているとき、医者はたまたま病院の前を歩いていた健康な人から臓器を取り出すことは許されるだろうか。もし有毒なガスが工場の通気口に漏れて7人がいる部屋に向かっていったら、誰かを通気口に押し込んで7人を有毒ガスから守ることは許されるだろうか?これらは本当の道徳ジレンマだ。直感を困らせ、裁判官であるかのように結果(多くの命を救う)とルール(殺人は間違っている)の対立要因に取り組むよう我々に強いる、困難な問題だ。

[For example, if five people in a hospital each require an organ to survive, is it permissible for a doctor to take the organs of a healthy person who happens to walk by the hospital? Or if a lethal gas has leaked into the vent of a factory and is headed towards a room with seven people, is it permissible to push someone into the vent, preventing the gas from reaching the seven but killing the one? These are true moral dilemmas — challenging problems that push on our intuitions as lay jurists, forcing us to wrestle with the opposing forces of consequences (saving the lives of many) and rules (killing is wrong).]

100以上のジレンマへの何千人もの参加者の反応に関して、私たちは性別、年齢、信仰、政治的ポリシーの間に差を見つけられなかった。なじみのないストーリーの判断を求められたとき、あなたの文化的な背景は無関係になる。

あなたの判断を導いているのは普遍的で無意識の種の声、生物学的コード、道徳的普遍文法だ。私たちは行動しないよりも、行動する方が悪いと見なす傾向がある。通気口に人を押し込むことは、人が死ぬのを放置するよりも悪いとみなす。より多くの利益を得る手段として誰かを利用し、あなたがそうしなかった時よりもその人を悪い状態に追いやるなら、それは悪いと判断される。これは回避可能な害と不可能な害の差だ。もし病院や工場の人が完璧に健康なら、多くの命を救うために彼の命を奪うことは、彼が死にかけていて救う方法がない時よりも悪いと判断される。この区別は抽象的で、偏りが無く、感情的に冷淡だ。これらは1=1の関係、抽象的でコンテンツフリーなルールのアイデンティティを認めているようでもある。

[What guides your judgments is the universal and unconscious voice of our species, a biological code, a universal moral grammar. We tend to see actions as worse than omissions of actions: pushing a person into the factory vent is worse than allowing the person to fall in. Using someone as a means to some greater good is worse if you make this one person worse off than if you don’t. This is the difference between an evitable and inevitable harm. If the person in the hospital or in the factory is perfectly healthy, taking his life to save the lives of many is worse than if he is dying and there is no cure. Distinctions such as these are abstract, impartial and emotionally cold. They are like recognising the identity relationship of 1=1, a rule that is abstract and content-free.]

このコードが普遍的で偏りがないなら、なぜ多くの不道徳がこの世界にあるのだろうか?答えは我々の感情、自集団偏愛主義の燃料を調達するときの感覚、他集団憎悪、究極的には人間性の喪失を考慮することから得られる。

サイコパス、ハリウッドのお気に入りの道徳的モンスターを考慮してほしい。臨床研究によって彼らが後悔、恥、罪悪感、共感を感じず、自制の力を欠いていることがわかる。彼らがそれらの能力を欠いているため、一部の専門家は何が正しいことで何が間違っているかを理解する手段がなく、だから間違ったことをするのだと主張した。だが新しい調査はこの結論が少なくとも部分的に間違っていると示している。サイコパスは何が善で何が悪であるかを十分わかっているが、気にしないのだ。彼らの道徳的な知識は完全で、彼らの道徳感情に問題がある。彼らは完全に正常な裁判官であり、完全に異常な道徳的俳優だ。サイコパスにとって、他の人は岩や人工物と違いがない。彼らは使い捨てにできる。

ここに育ちの危険、教育と偏りの危険を理解するための答えがある。我々がグループのメンバーを賞賛し、あおり立てて自集団のバイアスに油を注ぐとき、我々はしばしば無意識に、そして時には意識的に、全ての感情の中でもっとも凶悪なもの、嫌悪の噴出によって「他者」を中傷する。

我々は他者(他集団のメンバー)に人間以下だとか、時には生物ですらないとか、寄生虫だとか汚れているとか、吐き気を催すようなレッテルを貼る。嫌悪が充填されたとき集団の向かう出口は一つだけだ:他者の排斥

ダライ・ラマが、チベット人に対して抗議を止めさせようとすることで「文化的な虐殺」を中国人が試みていると述べたとき、もちろん中国人について述べているだけではなくて、偏りを説き、嫌悪と非人間性を振りまき、自治を認めないという特定の道徳教育についても述べているのだ。中国はチベットの文化遺産と文化的な表現の権利を追放する試みをやめなければならない。そして世界の国の多様な人々は、いかなる文化の抹殺に対しても警戒を怠ってはならない。

偏見--民族の内と外で人々を区別する--の心理学について良いニュースは、それが柔軟だということだ。変化することができ、進化の視点からは、我々の道徳文法と同様に抽象的でコンテンツフリーだと言える。

人間も含む全ての動物は、自集団と他集団のメンバーを区別する能力を進化させた。しかし選択された特徴はゲノムで固定されているわけではなく、経験を受け入れる。

たとえば生まれて1年以内の幼児発達の研究から、赤ん坊は他人種よりも自人種の顔を見るのを好むようになり、他国語よりも母語の話者を好むようになり、母語の内部でさえ彼ら自身の方言を好むようになることが知られている。しかし赤ん坊はほかの人種が彼らの母語を話しているのを見ると、同じ人種で他国語を話している人よりももずっと、その人と接しようとする。

これらの社会的カテゴリーは経験によって作られる。一部の特徴は見せかけるのが難しく、共有された文化的背景をより表すので、ほかより重要だ。しかし重要なことにそれらは可塑的だ。人種差別は異なる人種の親を持つ子のあいだでは大きく減少する。そして大人でさえ、異なる人種とデートしたことがある人の偏見はかなり減少する。これに基づいて全ての子供たちに人生の早い時期に、様々な宗教、政治システム、言語、社会組織と人種のバラエティに触れさせることで、道徳教育はより大きな役割を果たすことができる。多様性にさらされることはおそらく、強い集団間の偏見を減少させる--根絶はできないとしても--もっとも良い選択だ。

私がしている主張に関していかなる混同もせぬように。善悪を直観的に判断する進化の産物としての能力が、道徳的な人生を送るのに十分だと言っているのではない。二つの理由からそれは全く違う。

一つめ。我々の道徳本能の一部は今日ではどこにもないような人類の歴史的時代に進化した。遠い過去には、人類はとても親密な、普通は近縁者からなる小さなグループで暮らしていたし、定式化された法律を持っていなかった。今日、我々は巨大で、拡張された社会で生きている。そこでは我々[個人]の決定はコミュニティ内の人々にほとんど影響を及ぼさず、期待される規範から逸脱する人に法が押し付けられる。そのうえ我々は馴染みのない道徳的な判断に直面させられる。例えば幹細胞、中絶、臓器移植、延命措置。このような新しい状況に直面するとき、我々の進化したシステムは不十分だ。

二つめ。現在の道徳基準のもとでは、道徳的な生活は我々に不安な日々を要求する。常に何をして良いか、何をすべきかを見つけるよう要求される。ここは育ちが再び議論に立ち入れる部分でもある。種の普遍的な声を聞く一方で、代案[alternatives 選択肢か]があるかどうかを疑い立ち止まる人々がいる世界を必要とするので、教育は必要だ。もし代案があるなら、偏りに慎重で、多元主義を尊重する意志のある、理性的で合理的な人々が必要だ。

[The second reason is that living a moral life requires us to be restless with our present moral norms, always challenging us to discover what might and ought to be. And here is where nurture can re-enter the conversation. We need education because we need a world in which people listen to the universal voice of their species, while stopping to wonder whether there are alternatives. And if there are alternatives, we need rational and reasonable people who will be vigilant of partiality and champions of plurality.]

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[政治] 国旗の神聖さと宗教性

産経ニュースに次のような記事が載った。
日の丸裁断による民主党旗問題 国旗の侮辱行為への罰則は是か非か

国のシンボルである国旗は単なる器物ではない。ナショナル・フラッグへの敬愛の念は世界の常識。本来なら法律で定めることではなく教育で教えることだが、日教組が力を持つ戦後の日本では難しい。教育が機能していない以上、法で定める必要もあるのではないか

と百地章・日大教授(憲法学)は述べたそうだ。

さてSF作家ダグラス・アダムスは宗教について次のように述べている。

宗教というのは…その核心に、私たちが聖なるもの、神聖なもの、あるいはそのほかもろもろの名で呼んでいるある種の考えを持っています。それが意味するところは、「ここに、悪く言うことは一切許されない一つの考え、ないし概念がある。決して許されないのだ。なにゆえに?--許されていないから許されないのだ!」ということです。もし誰かが、あなたが賛同していない党派に投票したとすれば、あなたはそのことについて好きなだけ自由に論じることができます。誰もが自分の意見を言うでしょうが、それによって不当な扱いを受けたと憤慨する者はいません。

国旗問題と宗教のあいだの共通点は、決して疑問を挟まれることのない神聖さではないだろうか。「国旗や国家はなぜそんなに神聖に扱われなければならないのか?」という問が発されることがない。そもそもそんな問があることすら意識されることが少ない。これは一種の宗教的盲目さではないだろうか。Jonathan haidtが述べたように、生得的な道徳パラメーターのうち神聖さ内集団への忠誠が関わっているのかもしれない。つまり、本能の一種だと考えれば、疑問視されないのも理解できる。宗教を可能にしているのと同じ種類の認知能力なのだろう。そして私たちはそこから逃れるのが難しいのかもしれない。でも日本のどこかに、なぜ国旗や国家がそんなに神聖なんだ?とテレビなどを通して公言するリバタリアンが一人くらいいても良さそうなものだけれど。

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ダグラス・アダムスの発言はこちら。訳は『神は妄想である』から引用した。

ダン・スペルベル-表象の疫学(1)

ダン・スペルベルによる「表象の疫学」に関するインタビュー。と言うかトーク。2005年7月27日。edge.orgより。動画そのものが繋がらないのが残念…

関連がありそうなリンク
elekitel.jp-より深い人間理解へ(3)
『表象は感染する』の序論-訳者菅野盾樹氏が公開されているもの
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まずイントロから抜粋

ダン・スペルベルは認知と自然主義に集中し、進化と結びついたアプローチを用いるフランスの人類学者です。…スペルベルは『表象の疫学』と呼ばれる文化への自然主義的なアプローチの研究によって良く知られています。またイギリスの言語学者ディアドラ・ウィルソンとともにコミュニケーションへの認知的なアプローチを発展させた『関連性理論』によってもよく知られています。…彼は古典的な人類学の研究に加わりましたが、くわえて初期から基本的で生得的な心の構造を調べなければならないとも主張していました。…

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私が知っていたいことは、進化的な視点で、社会文化的な現象がどう心理的精神的な現象と関係しているかです。19世紀に社会科学と心理科学が全く異なるアプローチ、手法を用い、異なる問いを発することでそれぞれ妥当な学問分野であると明らかになってきました。心理学者は人の心で起きていることが個人が育つ文化の中で常に特徴付けられるという事実を見失いました。社会科学者は文化の伝達、維持、変容が特別なこととして起きるのなく、個人の心的プロセスの中で起きるという事実を見失いました。

これは、あなたが調べているものが文化--心理的な瞬間に役割を持つ部分--またはエピソードであれば、文化の伝達において重要とみなされるべきだということを意味します。つまり、あなたが研究しているのが文化なら、文化の伝達において心理的な契機またはエピソードが果たしている役割が決定的だと考えるべきだと言うことです[*]。私には、文化が個人の頭の上にどうにかして浮いている何かだと見なすことが非現実的だとわかります。文化は体の中を通っていきます。体と心を通して文化は創られています。

わたしは非常に長い間、文化の発達と進化の道筋を制約する原因として、そしてもちろん文化を創る可能性がある物として、人間の進化した心理構造について考えるべきだと主張し続けました。今では「空白の石版」として信用を失った人間の心に対する見解にずっと反対し続けていました。それはいまやスティーヴ・ピンカーによって見事に打ち倒されたが、私が学生の頃は疑われていませんでした。事実、「空白の石版」は我々が教えられ、ほとんどの人が教え続けたものでした。それに対して私は人の心の中に文化を創り出し、形を洗練させ、その上それが発展する道筋を束縛する特定の性質、能力、適性があると主張していました。それは私をふたつの人類学分野での研究に、そして社会科学での研究に導きました。それは私の最初の研究分野でしたが、どんどん認知科学へ向かっていきました。

60年代後半に心理学は「認知革命」の黎明期にありました。それは本当に根本的に変わった。過ごすのにとてもエキサイティングに知的な時代でした。いまでもそうですが。でも、ああ、社会科学ではそれに相当するものが何もなかった(私の意見では、その時代に刺激的なことは本当に何も起こらなかった)。私は社会科学にこの認知に関する研究の革命を利用して欲しかった。私はどのようにそれができるかを提案しようとしました。文化の伝達のミクロプロセスは文化の構造、内容、発展のマクロレベルにどのような影響を及ぼすか?私が言うミクロプロセスとは小さな規模のローカルな過程です。一方ではそれは人の脳の中で起きる心理的プロセスで、もう一方では共通の環境に人が持ち込む変化のことです。それはたとえば彼らが話したり、歩き回ったり相互作用することで生まれるちょっとした考えのことです。

人間の精神がどうにかしてか文化を刻印するだけの空白の石版ではないと同時に、コミュニケーションのプロセスは心から心へ内容をコピーするだけのゼロックス機ではありません。これはコミュニケーションを社会的利益や権力や意識的/無意識的なひずみによってのみ偏る符号化=解読システムや伝達システムとするか、さもなければ歪められていない情報の流れをスムーズに運ぶシステムだと考える標準的な記号学者や社会科学者と私を区別します。同様に、文化的な伝達を複製プロセスと見なし、模倣とコミュニケーションが強靱な複製システムを提供すると考えるリチャード・ドーキンスと私を区別します。

私の研究の優れた部分の多くはイギリスの言語学者ディアドラ・ウィルソンと行われました。人のコミュニケーションのメカニズムは今まで仮定されていたよりもずっと複雑で興味深いこと、そして保存力や複製力がそれほど無くて、より解釈的[constructive]かも知れません。理解するためには多くの解釈が必要です。そして再解釈が行われるだけでなく、シンプルな複製はほとんど無いでしょう。

あなたが何かを話すとき、何が起きているかについてのシンプルな視点はこうです:「ああ、これらは言葉だ、言葉は意味を持っている」。そして言葉を解釈し、話者が何を言っているのかを理解します。より現実的でより面白いのは、私が言ったように、言葉が話者の意味をそのまま包み込んでいるのではなく、話者の意図の手がかりをあなたに与えると言うことです。我々が話すとき、我々は聴き手に心の中にある何かを理解して欲しいと望みます。そしてそれを完全にコード化する方法はありません。可能な限り言葉にコード化しようとする試みは理不尽なほど難しいのです。言語的な発話は、それがどんなに豊かで複雑だったとしても、考えを完全にコード化することができません。しかし彼らは強力な、豊富な量の体系立てられた考えの手がかりの断片を与える事ならできます。

聴き手の視点では、話者は豊富な手がかりの断片を提供し、共有するバックグラウンドの知識、共有する文化、ローカルな状況、行われている会話やそんな感じのものの元で解釈します。このような異なる要因全ての助けを借りながらあなたは複雑な表象を形作ります。
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つづく
表象の疫学(2)
[*]optical_frogさんのご指摘により訂正しました。ありがとうございます。