ロバート・メイの原理主義批判

http://www.independent.co.uk/news/science/fundamentalism-will-damage-society-says-top-scientist-1782930.html
生態学者ロバート・メイが原理主義宗教を批判した。ジェリー・コインは「それなりにメイのことを知ってはいたが、今まで一度も宗教に対するスタンスを聞いたことがなかった」そう。
-+-+-+-

来世での罰を与えることのできる神という形をとった超自然者の存在は、かつては社会を”協力する存在”として結びつける助けとなったかもしれない--しかし将来はそうではない。

英国サイエンスフェスティバルの理事長、オックスフォードのメイ卿は、宗教がかつては人間の社会を安定させる助けとなったかもしれないが、原理主義の高まりが環境問題や人口の増大のような国際問題に取り組むために必要なハイレベルな協力をより困難にするかもしれないと述べた。政府の前チーフ科学アドバイザーである彼は東洋・西洋どちらでも、原理主義宗教が21世紀の問題に対処する世界の能力に悪影響を及ぼすかもしれないと警告した。数理生物学者であるメイ卿は理事長演説で、今後数十年に世界規模での人々の協力がいっそう必要となるとのべたが、その協力が確実に可能となるように抜け駆けした人を罰するメカニズムが必要となるのを恐れる、と付け加えた。過去には究極的な処罰者は神だった。「すべてを見通し、全知で、全能の世界をコントロールする神」による罰はは誰か個人からの罰よりもずっと効率的だったと彼は述べた。

そのようなシステムでは権威に対する疑いのない尊敬がある。信仰は証拠に勝る。だがこれが本当にどのように協力行動が進化したかのおおざっぱな説明で、そして人間社会で維持されてきたことの説明だとしたら、かなり悪いニュースかもしれない。そのような権威主義的システムは社会の調和や秩序を維持するのに都合がいいだろうから、同じ理由で、変化に順応するのに都合が悪いかもしれない。

イスラム世界だけでなくアメリカでも、それからカトリック教会内部でも、原理主義の台頭はかつて無いほどのチームワークが必要になるとき本当に世界的な協力を困難にするだろうとメイ卿は述べた。

あなたが緊急時に、権威主義的ヒエラルキーが変化に抵抗するという視点をとるならば、宗教の歴史が穏健な方向へ向かってきたというなら、ドグマ的でなくなると言うなら、困難な状況下であなたは複雑な問題を単純なお題目に変えていくことになる。

広告

Jonathan Haidtによる「リベラルと保守の道徳の起源」後編

前編
中編
12分55秒あたりから
-+-+-+-
一部の人々は、宗教が人々を結び付けるために、文化的・生物学的進化において適応として進化したと考えています。人々を互いに信頼させ、そして他のグループと争うときに有利です。私はそれが多分正しいだろうと思いますが、これはまだ議論がある問題です。でも私は宗教に…宗教の起源に興味があります。そして宗教が私たちに何をするか、私たちのために何をするかにも興味があります。世界でもっとも大きな驚きはグランドキャニオンではありません。グランドキャニオンは非常に単純です。それは単に多くの岩、多くの水と風、膨大な時間によってできました。そんなに複雑ではありません。本当に複雑なのは、人々がグランドキャニオンのようなところに住んでいることです。他の人と協力しながら、アフリカのサバンナやアラスカの極寒の岸辺にも住んでいます。そのうちいくつかはバビロン、ローマ、ティノチティトランのような巨大な都市となりました。どうやってそんなことが起きたのでしょうか?これは間違いなく奇跡です。グランドキャニオンよりも説明するのが難しいのです。

私が思うに、道具箱にあるあらゆる道具を利用したからです。協力的なグループを作るために道徳心理の全てが必要でした。そう、あなたは危害を心配する必要がありますし、公正さの心が必要です。それは本当に、より優れたすばらしい将来を追求するためのグループを形成するのを助けます。あなたがサブグループを持っていれば、そしてそのサブグループにも内部構造があるなら、そして他の人に欲求を抑えるように言うイデオロギーをあなたが持っているならば、助けになります。

そして今、リベラルと保守の間の不一致という難問にたどり着きました。リベラルは道徳の基盤のうち三つを退けるからです。彼らはこういいます:「集団内の共通性ではなくて、多様性をたたえよう」「権威を疑おう」それから:「あんたのルールを俺に押しつけないでくれ」

リベラルにはそうするだけの立派な動機があります。伝統的な権威、伝統的な道徳はとても抑圧的なことがあり、社会的地位の低い人々や女性、そしてそれらに合致しない人に対して制限的なことがあります。だからリベラルは弱者や抑圧について論じます。彼らは混乱のリスクを冒してでも変革や公正さを求めます。この人のシャツにはこう書いてあります:「不平を言うのを止めて、革命を起こそう」。もしあなたが経験に対して高い開放性を持っているなら、革命は良いことです。それは変化で、楽しみでもあります。一方、保守は慣習と伝統について論じます。彼らは秩序を求めます。たとえ底辺の人へ負担をかけることになっても。保守派の優れた洞察は、秩序を達成するのが本当に難しいと言うことです。それは本当に貴重で、失うのは簡単です。だからエドムンド・バークが言ったように、「人への抑制は、自由と同様に、彼らの権利の中から支払われる」。彼がこういったのは、フランス革命の混乱の後でした。
haidt1001

あなたがこれを理解したなら…保守とリベラルがともに貢献できることを持っていて、彼らは変革と安定の上でバランスを作っているのだとわかったら、道徳マトリックスの外へ踏み出すのを受け入れられると思います。

これはアジアの宗教が到達した優れた洞察です。陰と陽について考えてください。陰と陽は敵同士ではありません。互いに憎み合っていません。世界が機能するためには、昼と夜のように陰と陽のどちらも必要です。同じものがヒンズー教でも見つかります。多くの神がヒンズー教にいます。この二人は保護者のヴィシュヌと破壊者のシヴァです。この絵は二人の神が同じ体を共有していることを示しています。右側がシヴァの特徴を表していて、シヴァはリベラルな神です。彼らは一緒に働きます。仏教にも同じようなものがあります。この詩は私が思うに、これまででもっとも深い道徳心理学の洞察を含んでいます。

禅僧・僧璨より:「真理を実現したければ賛成や反対の見解を抱いてはならない。一つを嫌い一つを好むことは心の病だ[*]」。現在、残念ながらこの病は世界の多くの指導者に感染した病気です。しかしあなた自身、ジョージブッシュより優れていると感じる前に、石を投げる前に、自問してください。それを受け入れますか?善と悪の戦いから抜け出すことを受け入れますか?何かに賛成も反対もしないでいられますか?

要点は何でしょう?何をすべきでしょうか?古代のアジアの哲学と宗教の優れた洞察を取り入れるなら、そしてそれを最新の道徳心理学の研究と結びつけるなら、このような結論に達すると思います:私たちの高貴な精神は進化によってデザインされました。それは私たちをチームとして結びつけほかのチームと敵対させます。それから、真実を見失わせます。

では何をすべきなのでしょう?私は皆さんが努力していないと言っているのでしょうか?僧璨を受け入れて、好んだり嫌ったりすることを止めるように言っているのでしょうか。いや、そんなことは全くありません。そういっているのではないのです。TEDは多くの才能と輝き、エネルギー、お金を用いて世界をよりよくしようとする、そして過ちと戦い問題を解決しようとしている人々のすばらしいグループです。

しかしセルジオ・ビエイラ・デ・メロ[**]の話でサマンサ・パワーから学んだように、「おまえは間違っているが私は正しい」といいながら文句を言い続けてもダメです。私たちはまさに知ったように、誰でも自分が正しいと思っているのですから。私たちが解決しなければならないたくさんの問題とは、他の人々を変える必要がある問題のことです。そして他の人を変えたいと望むなら、そのためにより良い方法は、まずはじめに自分が何であるかを理解することです。それから道徳心理学を理解し、皆自分は正しいと考えていることを理解することです。それから出て行くのです。しばらくの間だけだとしても、出て行って僧璨とチェックインするのです。

道徳的マトリックスから出て行って、それを疲れ果てる奮闘[a struggle playing out]だと見なしてみてください。そこでは誰もが自分は正しいと考えています。そして誰もが、少なくとも何かの理由を持っています。あなたが彼らと意見が合わないとしてもです。誰にだってそうするだけの理由があります。

踏み出しましょう。そうすれば、それは道徳的な謙虚さを養うためのだいじな行動となります。あなたをその独善性--それが普通の人間の状態です--から救い出します。ダライ・ラマのことを考えましょう。ダライ・ラマの膨大な道徳的権威について考えてみましょう。それは彼の道徳的な謙虚さが原因です。私が考えているのは…私の話の要点ですが…TEDの要点は、よりよい方向に世界を変えることに情熱を傾けているグループだと言うことです。ここにお集まりの皆さんは世界をよりよい場所にするために情熱的に関わっています。しかし真実への情熱的な傾倒もあります。答えは、その真実への情熱的な傾倒を、私たちすべてのよりよい未来へ向けることにあると思います。どうもありがとう。
-+-+-+-
脚注
*このフレーズは久保栄治さんのウェブサイトの当該部分から引用させていただきました。

**サマンサ・パワーのTED講演を指しているのですが、こちらのブログのエントリを参考にさせていただきました。ポー川のほとりで-最近読んだ本:”Chasing the Flame” by Samantha Power

進化神学

コインのブログより。
-+-+-+-
ダニエル・デネットはケンブリッジ大学のダーウィン祭に参加し、信仰と宗教に関する二つのシンポジウムについてこのリポートを送ってくれた。シンポジウムは私がすでに述べたように、テンプルトン財団によって後援されていた。ダンはこのリポートをブログで公開することを親切にも許可してくれた。

私はケンブリッジ大学のダーウィンウィークパーティに出席していた。まず最初の日の二つのセッションは進化と神学についてで、テンプルトン財団に支援されていることに気付いた(寄付者と講演者のリストにはテンプルトン財団を思わせる物は何もなかったけど)。わたしは種分化に関する面白そうなセッションを止めてそちらに参加した。

私たちは「大きな問題」--よく用いられるフレーズだ--について聞かされた。それは新無神論者がナイーブに支持するだろうと思われる次の提案についてだった:「科学に答えることができない意味のある疑問はない。」

リチャード・ドーキンスの、旧約聖書の神がどれだけ恐ろしいかに関する素晴らしい文章がカリフォルニアのクレイモント神学スクールの教授フィリップ・クレイトンによって楽しげに読まれるのを聞いた。要点はあきらかにそれら無神論者の無教養ぶりを述べることだった。--彼は言わなかったが、彼のヤハウェの評価はリチャードと一致していないと私は気付いた。

私が思うに、それ以外の点については威厳があり莫大な尊敬に値する伝統の、戸惑わざるを得ない汚点に注意を引いたリチャードの品のなさを仄めかしていたようだ。より大きな論点は無神論者が「大きな問題に対して軽蔑的な態度を持っている」ことへの不満、そして特にドーキンスが神学者の意見を聞かないことだった(H・アレン・オア、みんなあんたの歌を歌ってるよ)。クレイトンは神の性質を箇条書きすることで私を驚かせた。彼のとても自然主義的な神学によれば、神は全能ではない、神は超自然でもない、それから…。簡単に言えばクレイトンは神を認めない無神論者だ。

次の話はプリンストン神学セミナリーの神学教授J.ヴェンツェル・ヴァン・ヒュイスティーンの「神学人類学」についてだった。それは具現化された精神について、一生懸命で回りくどい表現で満ちあふれていた。フランス・ドゥ・ヴァールやスティーブン・ミズンらによって描写された進化的な挿話で飾り立てられていた。

ディスカッションの時間にはもううんざりしていて講演者に立ち向かう気力がなかった。「私はダン・デネットです。黙示録の四騎士の一人です。最高の神学者と話して宿題をしなさいといつも言われ続けています。私はあなた方二人のお話を聞きました。あなたはそれが学際的な探求--進化神学--であると言っています。しかしわたしはまだ神学がその探求に何を貢献できるのか教えてもらうのを待っています。あなたはダーウィンのようにご自身の神学をかなり弄りました。私はそれに拍手を送ります。それでどんな関係が、もしあるならですが、 私が見逃している物が何かあるでしょうか?まだ科学や世俗的哲学が立ち向かっていない物で、神学が示せたり答えられるような問題は何ですか?あなたがこの学際的なプロジェクトにはっきりと示せる物は何かありますか?」(のような感じのことを言った)。 どちらの講演者も何も提示せず、「大きな問題」に興味がある全ての科学者が関心を持つはずの神学的知識のどんな例でも示すことなく、少ししゃべっただけだった。

しかし私は新しい言葉を学んだ。ケノティック神学のケノティック:Kenotic。それは「自分自身を空にする」と言う意味のギリシャ語のケノシスに由来する。神に対する正直さを表している。この新しいケノティック神学はあちこちで大流行している。それは「ダーウィニズムに適応することでより深遠なクリスチャンでいること」だ(わたしがでっちあげたんじゃありませんよ)。私は私はこの新語を知って嬉しいと言い、その名の通りケノティック神学に従って生きる気になったと言わざるを得なかった。

コーヒーブレイクの時に何人かが私の質問があの講演の埋め合わせとなったと言った。しかし私は他の人々を、熟考を求めるような私のくどい要求でイライラさせたのではないかと思う。ふたつの講演の第二セットの後で、司会が私の挑戦に対してさらなる返答を約束したので私は聞かなければならなかったのだが、討論の時間がさらに30分あった。私は自分の義務を果たしたと思う。注意して聴き、質問した。神学者の答えはこちらが困惑するほどわずかな物だった。一人は汎心論についてデイヴィッド・チャーマーズを勧めたけど、--彼は哲学者だ、神学者ではない--しかし私が知っている限り誰も、チャーマーズだってそうだが、汎心論をまじめに受け取らない。神学者はそうするだろうか?

三人目の講演者はケンブリッジ大学のデニス・アレクサンダーだった。彼は全ての生物が一本の生きた糸から誕生したという推測(面白い読みだ!)を行ったエラズマス・ダーウィンからダーウィン、スペンサー、ハクスリー、そしてグールドとドーキンス(と私)までの思想家によって提案された、進歩や目的における様々な立場の、興味深い歴史的な研究を行っている。特に面白いのはグールドの最後の本からの引用だ。そこでグールドはずっと持ち続けていた偶発性の議論に反して、進化が無視できない「方向の特性」を示すと認めた。アレキサンダーの結論は、近年ではやや「進化のプロセスにはより大きな目的がないと必ずしも言えるわけではないというのが、よりもっともらしい」というものだった。これは確かに慎重で妥当な結論だ。

4人目の話者はカトリックの神父フレーザー・ワット(ケンブリッジの神学スクールの人で、テンプルトンから膨大な援助を受けている)だった。彼は私たちに進化神学を紹介した。繰り返すけどでっち上げてはいない。

進化は、結局は、知性ある神が種を具現化する能力を持つものとして作るために計画された。各々の種の能力は、ワッツの意見では「スパンドレル」であるかも知れず、イエスは「霊的な変異」であり「進化のプロセスの最高点」で、世界史の転換点を記した。聴衆はおもしろがってワット師にイエスの両親は普通の人間だったと言っているのかを尋ねた(おそらくイエスが母方から受け継いだ遺伝子は自然選択の産物だったろうが、父方から受け継いだ遺伝子は精霊の手作りだったのではなかろうか!-しかし彼はイエスの両親についての知識や意見を持っていないと宣言することでこの質問に応じた。)

その後、私はセッションを楽しんで何かを学んだかと尋ねられた。私はそうしたと認めた。私は立派な洗練されたキリスト教神学者を汚く劇画化したと非難されることを恐れて「進化神学」の語を使う勇気がなかった。しかしその用語が洗練された神学が進化生物学に提供できる知識として何度も使われており、将来も引用され続けるだろうと聞いた。

私はセッション終了後にお告げを聞いたが、秘密にしていた:聖餐式はじつは真核生物革命の反復現象だ。キリスト教徒が消化することなくキリストの体をまるごと摂取するのは、最終的に多細胞生物への道を拓いた細胞内内部共生の奇跡の再現だ。それから、心から愛する同胞、キリストを私たちの体の中で無事に保つことで私たちの実体化された精神、魂の中に主の力を保つことができるのを、我々は見ることができる。これこそまさに最初の真核生物が、その子孫が高度な組織化で力を合わせることができるようになった現実世界の能力の二重の祝福を得た方法だ[And so, dearly beloved brethren, we can see that by keeping Christ intact in our bodies we are keeping His Power intact in our embodied Minds, or Souls, just the way the first Eukaryote was vouchsafed a double blessing of earthly competence that enabled its descendants to join forces in Higher Organizations.]。

進化神学ねえ・・・私はそれが理解できそうだ!実践もできる!それは本当に、ネットを張っていない知的なテニスのような物だ。パスカル・ボイヤー、D.S.ウィルソン、マイケル・ルースとハーヴェイ・ホワイトハウスの宗教の進化に関する別のセッションもあった。我々の進化神学者、フレーザー・ワット博士がそのセッションの司会だった。その飼い葉桶の中の哺乳類たちがどれだけ従順かを見るのは面白いだろう。

第二部

テンプルトンが後援する第二のセッションはそれほど見苦しくなかった。宗教の進化に関するもので、パスカル・ボイヤーとハーヴェイ・ホワイトハウスによる事実を列挙したプレゼンテーション、D.S.ウィルソンのいつも通りのマルチレベル選択説の宣伝、マイケル・ルースのこちらもいつも通りの、あちこちに飛ぶ個人的な演説が特徴だった。司会は我らが進化神学者フレイザー・ワット氏だったが、洗練されて中身のない仲裁だった。(私は疑問に思うのだが、神学(christology)は大文字で書かれなければならないだろうか?[I wonder: should “christology” be capitalized? ] イワン・マキュアンは私にX線神学があり得るかどうか尋ねた。私はそれが神学におけるクリックとワトソンの科学革命への道を拓くところを夢想して楽しんだ!)

私はセッションでいくつか学んだ。ボイヤーは、分離しており大部分が独立しているさまざまなアイテムのごった煮を「宗教」として「パッキング」する説得力あるケースを提示した。彼によれば宗教は習慣[institutions]によって生み出されたイデオロギーで、その習慣とは競争の中で宗教を「ブランド」に変える効果を持つ一種の広告だ。ホワイトハウスはKivungのカーゴカルトの魅力的で短い解説を行った。Kivungはパプアニューギニアの端で、彼自身が人類学者として数年間ともに生活しながら研究した。問題:Kivungのカルトには奇妙な信念がある。彼らの神(死んだ祖先)が白人に変わって、みんなのためにハイテク技術とたくさんの物を持って戻ってくるという。これは彼らと一緒に暮らしているひとりぼっちの白人人類学者にとって問題だ。手元にはカメラがある。だからできるだけ目立たないようにした。

ウィルソンはアメリカのティーンエイジャーの大集団に対する彼のグループの新しい研究のかなり面白いデータを示した。ティーンエイジャーの半分がペンテコステ派で半分が聖公会だった(つまり、超保守と超リベラル)。分かったことは、多くの異なる自己評価のスケールで、その若者たちは生物学者を「別の種」であるかのように見なすほど大きく異なると言うことだ[finding that on many different scales of self-assessment, these young people are so different that they would look to a biologist like “different species.”]。

ルースは彼が無神論者だと宣言すると同時に、宗教を説明しようとする人が宗教信念は間違っているというところから始めないことを願うと言った。彼は帰無仮説や裁判の推定無罪を理解していないみたいだ。それから彼の人生と、彼が--無神論者として--カルバン主義の神を気に入っていることなどを少し学んだ。

-+-+-+-
これで終わり。

Jonathan Haidtによる「リベラルと保守の道徳の起源」中編

私はこの五つが道徳精神の最初の草稿の最も優れた候補であると考えています。これらは少なくとも学ぶ準備がされているものだと考えています。しかし私の息子のマックスがリベラルな大学都市で育てば、この草稿はどう修正されそうでしょうか?そしてどのように私たちの60マイル南、バージニア州リンチバーグで生まれた子供と異なるようになるでしょうか?文化的バリエーションについて考える前に、異なるメタファーを試してみましょう。本当に五つのシステムが心で働いているなら、--直観と感情の五つの源が--それなら私たちは道徳精神が5チャンネルのオーディオイコライザーのように働くと考えることができます。そしてそれぞれのチャンネルは異なる値にセットすることができます。私の同僚ブライアン・ノセクとジェシー・グラハム、そして私はwww.YourMoral.orgでアンケートを採りました。これまで30000人がアンケートに答えました。あなたもそうすることができます。結果がここにあります。およそ23000人分はアメリカ人のものです。左側にリベラルの点数をプロットしました。右側が保守、真ん中が中道派です。青い線が危害に関する質問への人々の反応の平均点を示しています。

左からリベラル、中道、保守

左からリベラル、中道、保守


ごらんの通り人は危害とケアの問題を気にします。彼らは全体的にこのような声明に高い是認をあたえます。しかし、お気づきの通りリベラルは保守よりも少しそれを気に掛けます。線が下がっていますね。公正さについても同じです。しかしその他の三本の線を見てください。リベラルの点は非常に低いです。リベラルは基本的にこう言います。「いや、それは道徳ではありません。集団内の権威、貞潔さ、そんなものは道徳ではありません。」しかし保守的な人にとってその価値は上がります。リベラルは…ふたつのチャンネル、ふたつの道徳基盤を持つと言うことができます。保守派にはより多くの、5チャンネル、5つの道徳基盤があります。

我々はこれをあらゆる国で見ることができます。1100人分のカナダ人のデータはこれです。いくつかスライドをめくってみます。イギリス…オーストラリア…ニュージーランド…西ヨーロッパ…東ヨーロッパ…ラテンアメリカ…中東…東アジアと西アジア。そしてこれらのグラフ全てで内集団、権威、貞潔さに関して傾斜が急であることに気をつけてください。これはいずれに国でも危害と親切さについて意見の不一致があることを示しています。皆さんは…つまり我々は公正さについて議論をします、しかし誰でも危害と公正さが重要だと認めます。文化内の道徳論議の中心は内集団、権威、貞潔さについてです。

東アジア

東アジア

この問題はどう質問にすればいいか分からないほど強靱です。最近の研究のひとつでは、あなたは犬を飼おうとしていると想像してくださいと頼まれました。あなたはある犬種を選びました。その犬種について新しいことを学びました。あなたはその犬種が独立志向で、飼い主を平等な友人であると見なすと分かると思いますか?あなたがリベラルならば、「おお、そりゃいい」と言うでしょう。というのもリベラル派は「持ってきてちょうだい」と言うのが好きだからです。[笑い] あなたが保守的であったらそれはあまり魅力的ではありません。あなたが保守的ならその犬が家庭と家族にとても忠実で知らない人にすぐになじむことはないと分かります。忠誠は良いことです。犬は忠実であるべきです、と。しかしリベラル派にとってはその犬は共和党に指名されるためにそうしているように見えます[笑い]

あなたはこう言うかもしれません、OK、リベラルと保守の違いはあります。では他の3つの道徳基盤は何を作りますか?それらは外国人嫌いと権威主義と政教と主義のまさに基盤ではないですか?何がこのモラルを作りますか?何が彼らに道徳をもたらしますか?

答えは私が思うにヒエロムニス・ボスのこの驚くべき三連作「The Garden of Earthly Delights」に含まれています。最初のパネルには想像の瞬間が描かれています。全ては秩序立てられています。全ては美しい。全ての人間と動物はそうせよと定められたことをし、いるべきところにいる。だが世界の習わしは変わります。★[We get every person doing whatever he wants, with every aperture of every other person and every other animal.] 皆さんの一部はこれが60年代的だとお考えになるかも知れません。[笑い] しかし60年代は必然的に70年代に変わります。もちろんボスはこれを地獄と呼びました。

それでこの三連作、この3つのパネルは秩序が腐敗する傾向があるという時を越えた真実を描写しています。社会的エントロピーの真実です。しかしこれがキリスト教の喜びを伴う奇妙な問題を持つ想像の一部であると思わないように。同じストーリー、同じ進展が数年前にエルンスト・フェールとサイモン・ゲヒターによってネイチャーで発表された人が共有されたジレンマを演じると述べた論文にもあります。

あなたがお金を他人に渡すゲームがあります。ゲームの各々のラウンドで彼らは共通の箱にお金を入れることができます。実験の管理者はそのお金を二倍にし、プレイヤーの間でそれを分けます。これは様々な環境問題に類似した素晴らしい例です。その問題では私たちは他人に犠牲を払うよう要求します。彼らは自分自身の犠牲から利益を得られるわけではありません。しかしあなたにとっては他の人の犠牲は望ましいです。そして誰にでも同様のただ乗りの誘惑があります。そこで最初に起こることは、、人々は最初に合理的な強調から始めます。これは全て匿名で行われます。参加者は持ち金の半分を配ります。しかし彼らはすぐに気付きます、「他の人は十分に協力していない。私はカモになりたくない。協力したくない」。協調は急速に衰え、合理的な協力からゼロへと向かいます。

しかしここで、ここでトリックがあります。フェールとゲヒターは7ラウンド目で参加者に告げました。「ちょっと良いですか、新しいルールです。あなたが貢献していない人を罰するために少しお金を使いたいなら、そうしても良いですよ」。そう聞くとすぐに協力が始まります。それは急上昇します。協力は上昇しつづけます。協調の問題の解決について明らかにした多くの研究があります。罰は本当に協調を助けます。良心に訴えるだけでは十分でありません。罰は本当に助けとなります。たとえ恥、ばつの悪さ、ゴシップだけだったとしても大きなグループの中で人を動かすのにある種の罰を必要とします。最近の研究ではある状況で宗教が、あるいは神、人々に神を考えさせることがより協調的、より社会的な行動を取らせることを示唆します。

ダニエル・ラドクリフは無神論者で、16歳で童貞を失った

というのはcelebitchy.comの見出しから。特に宗教的保守派な人びとにとってはかなりショッキングな見出しではないだろうか。これまでは「非宗教的だがユダヤ教徒として育てられて誇りに思っている」と述べ配慮を見せていた。以下はexaminer.comの記事より。2009年7月4日付け
-+-+-+-
人々が本だけではなくハリーポッターの映画にもずっと反対していたことは誰でも知っている。抗議した人の多くは宗教的な信念からそうしていた。1999年にはAP通信が、親のグループが学校の教室から本が締め出されることを望んだと報道された。そのうちの一人、エリザベス・マウンスは次のように語ったと報じられた。「本には死、憎しみ、悪のひどいトーンがあって信望が欠けている」。同時に校長のジェリー・ロックは教師に問題が解決されるまで教室で本を読ませないように頼んだ。「全ての親が子供が魔法や魔法使いに関係のある本を読んだり曝されたりすることを望むかどうかは疑わしい」

2002年後半にはメーン州ルイストンで反ハリーポッター会議が行われたと報じられた。およそ100人が出席し、代表がハリーポッターの本を切り裂くのを見た。彼らはまたハリーポッターと「本物の」魔法の類似点を描いたフィルムを見た。代表のダグラス・テイラー師は「私はピータパンにもオズの魔法使いにも反対です。魔法やカルトを扱ったあらゆる種類の本にも映画にも反対です」と述べた。(おほん、じゃあ聖書はどうなんだ?)

2006年にはアトランタでローラ・マロウは「ハリー・ポッターはフィクションの人物と言うよりもずっと不吉だ」と述べ、「彼女は本が校内で銃を乱射するような文化を促すとまで心配した。彼女は代わりに学生が聖書を読んでいればそんなことは起きないはずだと信じていた」とも報じられた。(彼女は本当に聖書を読んだのか?それは暴力だらけだ!)

そう、ここアメリカではハリーポッター嫌いは確かな物になっていた。しかし、今や宗教的な人々にとってハリーポッターを憎むもう一つの理由ができた。もし彼らが今嫌っている理由だけで満足しないというのならば。少なくともダニエル・ラドクリフは、彼らがそうするかも知れないと思っている。

多くの人々がダニエル・ラドクリフは無神論者ではないかと思ったが、彼はエスクァイアのインタビューでそれを認めた。テレグラフのウェブサイトがそれを報じた。ハリーポッターのスターは次のように述べた。

私は無神論者です。それでとても穏やかな気分です。自分の無神論を説こうとはしませんが、しかしリチャード・ドーキンスのようにそうする人々にとても大きな敬意を持っています。彼がテレビですることは何でも見ています。

[この後にジョークを言っているのだが意味がつかめず]
There we go, Dan, that’s half of America that’s not going to see the next Harry Potter film on the back of that comment.

-+-+-+-
なのでジョークの代わりにCelebitchy.comより記事の一部(エスクァイアの引用)を引用。かなり踏み込んだことを述べている…

-+-+-+-
*「僕は電子レンジを持つ悪魔だ。自分の夕食は自分で作る。ほとんどチーズとツナのぶっかけパスタだけど…」
*「マイケル・ジャクソンの音楽は好きじゃない」
*14歳の時にエマ・ワトソンを通して知り合った初めてのガールフレンドがいた。16歳の時に童貞を失ったことを認めた。
*公的な教育を終えているが、英語の教師と週二時間のレッスンを持っている。「学校に行くのを止めて勉強を突然中断したくない[からです]」
-+-+-+-
さて尊敬されていると言われたドーキンス本人はなんと言っているか。あちこちで「ハリーポッターは反科学だ」と言ったと紹介されているが、こちらの記事(2008年11月)は若干擁護的だ。彼の発言だけを強引に意訳してみる。要するに合理主義を推進する立場からは積極的に推奨することはできないが、別に子供たちから取り上げるほどではないと言うことだろうか。プルマンを読んでいるんだからハリーポッターを読んでいてもよさそうなものだが。
-+-+-+-

私が来年書く本は世界について考える方法の児童書です。それは科学的思考法と神話的思考法を対比させます。私はハリーポッターを読みませんでした。私は他の代表的な児童書の著者の[フィリップ・]プルマンを読みました。彼の本が大好きです。魔法とおとぎ話について、どう考えるべきか分かりません。

私はそれが反科学であると思いますが、有害かどうかは私にはわかりません。自分自身の子供時代を振り返ると、私が読んだ本のほとんどがカエルが王子様に変わるような内容でした。それが潜在的に合理性に影響を与えるかどうか分からない。それは研究する価値があるでしょう。

-+-+-+-

Debaptism:洗礼の拒否

デジタルジャーナルドットコム09/06/08より。すでに3月にはニュースになっていた。日本の靖国合祀拒否問題にも繋がる話題。自分が信じない宗教の一員として名前が記載されていたら誰だって良い気分はしないだろう。実害がないからそのままでよいという論理は正当か考えさせられる。
-+-+-+-

「あなたを、あなたが決して持っていなかった原罪から解放した原おまじないから解放しよう!」と言うスローガンとともに、日常的な無神論者は他に何を求めることができたか?洗礼破棄がそうだ。

名誉の新しいバッジはイギリスの無神論者のために導入された。それはデバプティズム:Debaptismと呼ばれている。イギリス世俗協会:The National Secular Societyはイギリス中で洗礼破棄を認めさせるための請求を主導している。[その語が]マクミラン英語辞書のウェブサイトの「今週の単語」に登録された後、イギリス世俗協会は10万人以上がウェブサイトから洗礼破棄証をダウンロードしたと述べた。

ジョン・ハントは50歳の英国人で、英国国教会(アングリカン/監督派)の洗礼を受けた。彼は教会を「偽善的な組織」と見なし、洗礼を取り消したいと考えていた。しかしクロイドン主教ニック・ベインズがBBCで言った様に、

あなたは記録上から実際に起きた何かを取り消すことはできない。我々がそれに同意するかと、それが起きたかどうかは別の問題である。それは写真からトロツキーを消そうとするような物だ。ハント氏は洗礼を施された。それは公的な記録の問題だ。

この問題の司教区は、洗礼の取り消しを望む人がロンドンガゼットに通知を出し、その通知を受けた主教が洗礼帳にそう記入できると示唆した。しかし国教会はそれが公式の方針でないと素早く注意した。

国教会には洗礼を取り消した人の[取り消したという]公式記録を維持する理由がありません:明確に洗礼を否定し教会の生活に参加しない人々は、より一般的な意味で、教会のメンバーであると考えるべきではないと認めるだけです。

カトリック教会はしかし、教会を離れたいと願う人の洗礼帳の記録にその旨を書き入れるつもりがある。

人は洗礼を受けていないことにしたり、その記録を削除することができないが、ウェストミンスター教区は教会を離れたいと願う誰にでも、その旨を洗礼帳に書き込めると忠告することになっています。それは一覧の余白に書き込まれます。実際のエントリーは書き換えることができませんが、洗礼の記録と一緒に正式なものとして余白に書き込まれます。教区の司祭はそれが適切に行われたと知らせることができます。

私はジョン・ハントの洗礼破棄の最後の言葉とともに終わりにしようと思う:「私は全ての教義とその他のそのような迷信を拒否します。特にどんな赤ん坊でも原罪が清められなければならないという不誠実な信念…」
-+-+-+-
証明書の内容はこう。
-+-+-+-
わたくし○○は幼少時(承諾年齢に達する前)にキリスト教の洗礼の儀式を受けさせられていましたが、ここに公的にその儀式のいかなる意味も無効にし、それを行った教会との関係を拒絶します。人間の理性の名のもと、私はそのあらゆる教義、あらゆる種類のそのような迷信、特に全ての赤ん坊は原罪や、空想上の悪魔の悪しき力を持っており、洗礼によって清められなければならないという不誠実な信念を拒否します。私は今後、過去の洗礼の統計数に基づく教会の会員数の主張、例えばそれは法的な特権を得るために用いられていますが、その数から除外されることを望みます。

宗教の呪い:A.C.グレーリングによる宗教批判

ガーディアンのコラムより抜粋。09/07/01
筆者は哲学者A.C.グレーリング。共通の利益のためには教義などお構いなしで手を組む打算的な姿勢を批判してはいるのだが、基本的には彼らに与えられている権利や尊敬の莫大さを批判しており、安楽死問題とはあまり関係なくなっている。

-+-+-+-
タイトル:宗教の呪い
カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ、ウェストミンスター大司教ヴィンセント・ニコルズとチーフラビのジョナサン・サックスが、不治か終末期の病の人々の苦しみを長引かせるために力を合わせたこと--死を幇助してもらうためにスイスに行く患者に同伴することを解禁する法の改正に反対することで--は驚くようなことではない。

親切さに対するドグマの優先、人道に対する迷信に基づいたモラリズムは、歴史が大きく立証しているように宗教のおなじみのやり方だ。にもかかわらずそれはうんざりして嫌気がさしている人に、公共の場で宗教の問題に戻るよう強いる。

大司教とラビが人類の倫理的円熟を破壊しようとしていることについて述べなければならない。それで私は繰り返す:自由な社会で人々は彼らが望むものを信じることを許されなければならない。それが愚かで、無知で、不合理なものであっても、他の人に害を与えないならば。

宗教団体はちょうどいかなる自主選択、自己決定された利益団体(労働組合や政党のような)でもするようにあらゆる権利を持ち、言いたいことを言える。しかし宗教組織は彼らがそのようなグループであり、そのようなグループ以外の何者でもないと認めなければならない。彼らは市民社会の組織、例えば労働組合のように自己の利益を守り推進するために存在すると。彼らには同じ権利があり、他より大きな権利があるのではない。

そして問題はここにある。宗教は他の誰よりも大きな権利があると考えている。耳を傾けられる権利、法の埒外にある権利、特権を与えられる権利、彼らの学校のために税金を与えられる権利、上院に議席を持つ権利(26人の一代貴族の聖職者と、加えて引退した司教、大司教がいる)、公共のラジオで毎週何時間も話す権利、莫大なステータスを持つ権利、彼らの病院付き牧師が公金で雇われる権利、その他果てしなく。現実とは全く不釣り合いにパイから巨大なひとかけらをもって行こうとする。毎日曜毎に英国国教会のサービスを受けるのは全人口の3%であり、なんらかの教会、寺院、モスク、シナゴーグに通うのは10%だ。そして国はそれに協力している!

どうしたらこんなことが許容できるのか?全ての宗教的な組織は労働組合や他のロビー団体と同じようにプライベートなNGOにしなければならない。存続するために支持者からお金を集め、他のどのような団体とも同じ権利と資格だけを持つ。特権を停止し、金を渡すのを止め、政府が彼らの見解(その見解は、古代の読み書きできない羊飼いの信念に由来することを決して忘れぬよう)を広めるのを止めさせないといけない。

労働党や保守党が、3歳や4歳の子供に彼らの主義を教えるために政府から補助金を受け取って学校を運営したら、我々はどう考えるだろうか?あるいは占星術師、水晶占い師、お守り商人、ドルイド、魔女なら?全て自称で、自主選択的で、彼らなりの先入観を持っている。

大司教とラビが人道的な法律を阻止するために一緒に立っていることに気付こう。厳密に言えば、もちろん各々の聖職者は教義上、他の聖職者を異教徒、邪教徒、背教者と考えなければならない。彼らの組織はその歴史の大部分を互いに戦い、迫害し、処刑することに費やした。本当に、全ての宗教は他の全ての宗教を、彼らの信者を間違えさせ、誤解させていると考えなければならないはずである。

しかし宗教が共通の目的を持っているとき、たとえば信仰に基づく学校のために税金を手に入れたいとか、差別法から免除されたいとか、議会に議席を得たいというような時には統一戦線を張る。

これはふつう偽善と呼ばれる物だ。しかし間違いなく、現代神学はそれを再定義するために複雑な多音節語[polysyllable]を考えついた。
-+-+-+-
この問題は自殺幇助を求めて海外に旅立つ人へ付きそう人に最高14年の刑を科すことを定めた法律から、それを取り除くべきかどうかの審議に聖職者が共同して反対したことから起きた。テレグラフの記事によれば、彼らは(もちろん改正自体にも反対しているが)審議が内密に行われようとしたことを批判しているようだ。
-+-+-+-
[前大法官]フォークナーは自身の提案を擁護し、現在の法の状況を「考えていない」三人の署名者を批判した。「彼らの考え無しの反対には本当に驚かされる」「改正は自殺するために海外に行く人に許可を与えるのではない:彼らはすでにそうすることができる」そして改正は「法律に現在の処置を反映させるために」行われるのだと述べた。聖職者たちが、法改正が危険な方向に向かうと主張しているのなら、「彼らの反対の説明をややこしくするようなことを言うよりも、[最初から]そう言うべきだった」
-+-+-+-