融和主義者の戦略

Jerry Coyneのブログから、”融和主義者”の戦略のまとめとちょっとしたコメントを抜粋。

[宗教と科学の]融和主義者は無神論者を片隅に追いやろうとして典型的な戦略へと目を向ける。その戦略とは

1.世界の真実を見つけるためには複数の方法がある。科学は一つの方法であり、宗教は別の方法だ。

2.もし経験的な証拠と理性を、何が真実であるかを判断するための唯一の権威であると考えるなら、あなたは科学主義という罪を犯していることになる。これは科学者を原理主義者とおなじくらい宗教的にする。

3.ところで科学も間違いを犯すことがある。科学者も人間だし、彼らの主張の中には当てにならないものもある。しかも科学は絶えず古い考えを新しいものと取り替え続ける。つまり科学的な「事実」はころころ変わる。

4.科学と宗教は互いに実り多く貢献しあう。この「実りの多き相互作用説」は--多くの同じ人物が、宗教と科学が分離していて重複していない領土を持っていると見なしていることは気にするな--Huffington Postのウンザリな「宗教と科学」コーナーの基本だ。

5.最も重要なことは、新無神論者は科学と宗教の「対話」に何も貢献しない、いや何も貢献することができず、ただ卑劣で執拗なだけだ。まったく彼らのネガティブさと無礼さは信心深い人との間に溝を作り、彼らを科学の元からイエスの方へ追いやることになる。無神論者の見解を議論、討論から遠ざけるのが望ましい。これはNCSEやAAAS、テンプルトン財団のような団体、クリス・ムーニーやジョシュ・ローゼナウのようなブロガーの戦略のようだ。

このあと5番目の例として聖職者レタープロジェクトのマイケル・ツィンメルマンにふれてから、こうコメント。

多くの融和主義者と同様にツィンメルマンは率直な批判と苛烈で狂信的な攻撃を区別できないらしい。そして彼らはこの区別をしたくない。そんなことをすれば、宗教に反対する新無神論者の実質的な議論に、具体的に触れなければならなくなるから。

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進化ダイエットと創造論者ダイエット

進化神学や進化美学があることは知っていたが、ブログ The tree of lifeで進化ダイエットの存在を知った。ここで紹介されているのはペットのための食品だが、人間向けの進化ダイエットもある。
The Evolution Diet
The Evolution Diet

本も出ており、ブログもある。サブタイトルが「オールナチュラル、アレルギーフリー」となっているのが怪しさ満点。オールナチュラルというフレーズは、たいがい「自然なものはなんでも良いものだ」的な自然賛美と結びついているように思う。このウェブサイトには進化ダイエットの四原則が示されている。

1.文化ではなく体に聞け
2.祖先のやり方をダイエットに応用しろ
3.自然のものを摂取し、トゥインキーのような極端な人工食品(AEFs:Artificially Extreme Foods)を避けよ
4.体が運動しろと言ったら運動し、眠れと言ったときに眠るべし

wikipediaには石器時代ダイエットPaleolithic dietという項目があり、やたら気合いが入った編集が行われている。よくよく調べてみるとこれがパレオダイエットとして今年二月頃に日本でも話題になっていたことを知った。

パレオダイエットを実践されているCoconut milk cafeさんのところでは食べて良い食材が挙げられている。たくさんのレシピが公開されており、健康に良いかどうかはともかく、たまに試してみるのはおもしろそう。

ほんの少量のイモ類を除き、ほとんど炭水化物を取りません。特に穀物は一切食べないです。パレオダイエットでは、食べない食品がいくつもあり、それらはパスタ・米・コーンなどの穀物の炭水化物・豆類・乳製品・砂糖・オリーブオイルを除くベジタブルオイルやコーン油などです。

穀物に限らず現代のほとんどの野菜、肉は品種改良されており原始人が食していたものとはかなり異なっているはず。パレオダイエットと進化ダイエットは少し違うようだ。パレオダイエットの中にも生肉を勧める流派もあれば勧めない流派もある模様。旧石器時代といっても200万年の幅があり、火の利用が広まる前と後では食事の内容も大きく異なった可能性が高い。また大人の乳糖耐性の広まりのように比較的最近起きた適応もあるのだし、いずれにしろ祖先が食べていたという事実からは、現代人の健康にも良いという結論は導き出せないのだが。

wikipediaにはこうも書かれている。

このダイエット方法は栄養学者と人類学者の中で論争となった。イギリスのNHSとアメリカのAmerican Dietetic Associationは一過性の流行ダイエットと見なした。批判者は、もし狩猟採集社会が「現代病」で苦しむことがないとしても、それは彼らの食事のカロリー不足や他の様々な要因のためであって、ある特定の食品の組み合わせを摂取しているからではないと主張した。一部の研究者はダイエットの根底にある進化の論理が不正確であると異を唱えた。またそれらが健康を増進しないか、健康リスクをもたらすことがあり、古代の石器時代の食事を正確に反映していないという理由からも特定の食品を推奨したり、食事を制限することにも反対した。さらにこのダイエットの極端なスタイルは誰にとっても現実的な選択肢であるわけではないとも指摘された。

創造論者ダイエット


さらには創造論者ダイエットもある。amazon.comで調べると、関連商品にはエデンダイエット、聖書に基づく健康本など類似本がいくつもある。創造論者ダイエット本の著者による簡潔なまとめがウェブサイトとして公開されていた。そのCreationist Diet Summaryによれば、

最近推奨されてる人気のダイエット方法は「石器時代ダイエット」だ。…ダイエットの背後にある理論は、200万年前に最初にホモ・サピエンスに進化したとき以来、数千年前に食生活が変わるまで我々の祖先が食べてきたものがもっとも健康的だ、というものだ。そのようなダイエットは、進化が我々に「用意した」食べ方だということになろう。そのようなダイエットはいかにもらしい。もし進化の理論を信じるならば。私はそうは思わない。だがこの「石器時代ダイエット」は創造論に基づいたダイエットがどのように見えるかを私に考えさせた。ここでは私は創世記の序盤の章が文字通りに、そして歴史的に正しいと受け入れている。

これらの節で神はあらゆる種類の植物性食物を食べものとしてあたえた。フルーツ、野菜、ナッツ、種、穀物、豆。だからこれらのどれもが創造論者ダイエットに含まれている。だが創造論者ダイエットの原則に関係するもう一つの点はこれら異なる食物のそれぞれが人間に消費されるようになったとき、そのやり方だ。聖書はこれらの疑問にはっきりとした答えを与えないが、もっともありそうなシナリオを聖書から集めることはできる。始まりはエデンの園だ。アダムとイブは追放される前に何を食べただろうか?創世記から引用した上の二つの節はアダムとイブの最初の食べ物が園の木の上で育ったものだったことをしめしている。ではどんな物が木の上で育つだろうか?まず思いつくのは果物だ。フルーツは230回も言及されておりずば抜けている。いくつかの具体的なフルーツがやはり言及されている。現在ほとんどのあらゆる栄養学者が果実の栄養価を認めており、もっと食べる必要があると認めている。フルーツは天然の炭水化物と糖(つまり精製糖でみられるスクロースではなくて、フルクトース)を多く含み、さまざまなビタミン、ミネラル、食物繊維の摂取源として優れている。

しかし果物だからといって体によいばかりではない。糖尿病で食事制限されていれば、果物の摂取も制限される。調理については…

だがいつから人間は食物の料理を始めただろうか?聖書はいつから食物が調理されだしたかを特に述べていない。だがその兆候は創世記4:22でみられる。……青銅と鉄を作るには智恵と火が必要だ。もし人間が歴史のこれほど初期に青銅と鉄の精錬のために火を使うことを覚えたのなら、調理の方法もごく初期に覚えたことは、かなりあり得ることだろう。それでもあきらかに生の食料は調理された食料よりも「早い」食べ物であろう。これは重要な点だ。人間は調理された食料よりも、生の食料を先に食べていたのだから、生の食料は創造論者ダイエットのかなりの部分を占めなければならない。

なぜ先に生で食べられていたからといって、調理済み食料よりも多く食べなければならないとなるのか不明だが、進化ダイエットと同じ方向に向かっていく…。

だが生食ダイエットには潜在的な問題がある。この問題のほとんどは、十分な量を消費できないことに関連する。生のフルーツと野菜はすばらしい!それらは非常に高い栄養価を持つ。だがカロリーがあまり高くない。生野菜と生のフルーツだけを食べるのは、十分なカロリーを消費する[原文ママ]ことをとても難しくすることになる。……けれどもそのような制限ダイエットは減量のための最高の方法ではない。様々な栄養が不足していることもあるし、食事が単調になることもあるだろう。だから長く続けるためには厳しく制限されていない方が好ましい。

ビーガンについて

だがビーガンとベジタリアンは健康だろうか?そう、ビーガン食はノア時代以前のすべての人が食べていたものだ。それはおよそ2000年以上に及ぶ。そのうえ、その時記録された人々の年齢は900歳以上なのだ!だからビーガン食はノア以前の人々の良い助けとなったようだ。しかも科学研究はビーガンとベジタリアンは肉食者と比較してガン、心臓病、その他の変性疾患の罹患率が低い傾向があることを示している。……だが強い制限ダイエットは健康に好ましくないこともあろう。特に長期にわたる場合には。

冗談か本気かわからない。

最終的に創造論者ダイエットは参照する時代によって四つに分類され、古い時代ほど制限が厳しい。

エデンダイエット:生野菜と生の果実、生のナッツと種子、生の穀物もありかもしれない。
ノア以前ダイエット:上の食物に加えて調理された果実、野菜、ナッツ、種子、すべての穀物、豆(大豆、ピーナッツを含む)、植物油。
ノアダイエット:加えて低脂肪のトリムされた「クリーンな」肉、皮のないチキン/ターキー、クリーンな魚。
約束の地ダイエット:加えてミルクと乳製品、ハチミツ

この分類は良くできていると思う。制限が厳しければ厳しいほど信仰を試すことができる。健康志向派は緩やかな制限を選ぶこともできる。

ところでパレオダイエット、進化ダイエット、創造論者ダイエットには妙な共通点がある。
1.現代的な食品、とくに加工食品の忌避
2.自然なものは良いものだ、昔は良かったのだという根拠に乏しい仮定
3.健康に良い食材と悪い食材という二分法(量やバランスにはあまり言及しない)
4.ときどき栄養学的な説明をして自説を補強
一過性の流行ダイエット全体に共通することだけど。

ボブ・ジョーンズ大学で使われている科学の(クリスチャン・サイエンスの)教科書がすごい件。

小学校の教科書ではないし、19世紀の教科書でもない。現在でも使われている教科書のようだ。写真のファッションはちょっと古風だが。

電気はミステリーです。誰も電気を見たことがないし、聞いたことも、触ったこともありません。私たちが見たり聞いたり触ったりできるのは、電気がすることだけです。電気が電球を光らせたり、アイロンを熱くしたり、電話を鳴らせたりすることは知っています。でも電気そのものがどんな物であるかは誰も知りません。

私たちは電気がどこからやってくるかさえ知りません。一部の科学者はほとんどの電気が太陽で生み出されているかもしれないと考えています。他の科学者は地球の運動によって生み出されていると考えています。誰もが知っているのは、電気はどこにでもあって、それを取り出すたくさんの方法があるということです。

電気を使わないとしたら、学校に行く準備をどう変えなければならなくなるでしょう?

「あなたの雷のとどろきは、つむじ風の中にあり、あなたのいなずまは世を照し、地は震い動いた」 詩篇77:18

もし科学が(自然の科学的理解が)信仰にとって重要なら正しい理解を教えるべきであるし、もし重要でないなら、わざわざ学生を騙すようなことをする必要はないと思うのだが。

Pharyngulaより。
詩篇の訳はこちらを使わせていただきました。

砲火を浴びた進化論

Kumicitさんのシカゴで進化論 Newsweek 1980というエントリから、放置していた記事があったことを思い出した。

一部の人々にはとても人気があった記事、1980年にサイエンスに載ったロジャー・リューインの『砲火を浴びた進化論』。2000年から2008年頃まで一般公開してくれていた人がいたのだが、公開するために毎年AAASに100ドル支払っていたそうで、残念ながらもう公開を止めてしまった模様。一部だけ抜粋。

“Evolutionary Theory Under Fire” by Roger Lewin, Science , Volume 210, 21 November 1980, pp 883-887.

シカゴでの歴史的な会議は現代的総合の40年にわたる長い優位に疑問を呈した。最近の学会の最終日の朝食の時にこんな会話を耳にした。「大進化を信じますか?」「うーん、それをどう定義するかによるね」。さまざまな点で、この謎めいた会話は、ここ30年の進化生物学のもっとも重要な会議の参加者が持った感想を表していた。広い範囲の研究者--地質学者、考古学者から生態学者、集団遺伝学者を通して発生学者、分子生物学者までがシカゴのフィールド自然史博物館のシンプルなタイトルの会議に集まった。「大進化」。彼らの任務は種の起源と種同士の進化的関係の基盤となるメカニズムを討議することだった。

Overheard at breakfast on the final day of a recent scientific meeting: “Do you believe in macroevolution?” Came the reply: “Well, it depends how you define it.”

In many ways this cryptic exchange expressed the prevailing sense of the participants at one of the most important conferences on evolutionary biology for more than 30 years. A wide spectrum of researchers- ranging from geologists and paleontologists, through ecologists and population geneticists, to embryologists and molecular biologists- gathered at Chicago’s Field Museum of Natural History under the simple conference title: Macroevolution. Their task was to consider the mechanisms that underlie the origin of species and the evolutionary relationships between species.

過去40年にわたって進化生物学は現代的総合に支配されてきた。その用語は1942年にジュリアン・ハクスリーによって提案された。この理論は急速に成熟した集団生物学と遺伝学の概念でダーウィニズムを説明していた。理論は基本的に次の二つである。第一に構造遺伝子の中の点突然変異は個体変異の源である。その進化的変化は集団中の遺伝子頻度の変動の結果である。種の起源と種グループにおけるトレンドの発達は、これら小さな遺伝的差異の漸進的な蓄積として説明される。現代的総合によれば進化的変化のペースはゆっくりである。第二に進化的変化の方向は小さな変異に作用する自然選択によって決定される。生き残る変異型はその環境にもっとも適したものだ。個体の形ーー彼らの形態ーーは適応主義の有用性の光に照らされる。

集団内の変化は小進化と呼ばれる。それらは実際に遺伝子頻度の変化の結果として受け入れられる。種レベル以上の変化--新種の起源と高位の分類群パターンの確立--は大進化として知られる。シカゴ会議の中心的な問題は小進化の基盤のメカニズムが大進化現象を説明するために外挿できるかどうかであった。……しかし大進化が小進化から完全に切り離されるかどうかはそれほど明確ではない。この二つは重複する部分を持つ連続体と見なされる方があり得るだろう。

For the past 40 years the study of evolutionary biology has been dominated by the Modern Synthesis, a term coined by Julian Huxley in 1942. This theory explained Darwinism in terms of the rapidly maturing sciences of population biology and genetics. Essentially the theory says the following two things. First, that point mutation within structural genes is the source of variability in organisms and that evolutionary change is the result of a shift in the frequency of genes within a population. The origin of species and the development of trends in groups of species are explained as a consequence of the gradual accumulation of these small genetic differences. The pace of evolutionary change, according to the Modern Synthesis, is slow. Second, the direction of evolutionary change is determined by natural selection working on small variations: the variants that survive are those that are best fitted to their environments. The shape of organisms – their morphology – is therefore viewed in the utilitarian light of adaptationism.

The changes within a population have been termed microevolution, and they can indeed be accepted as a consequence of shifting gene frequences [sic]. Changes above the species level – involving the origin of new species and the establishment of higher taxonomic patterns – are known as macroevolution. The central question of the Chicago conference was whether the mechanisms underlying microevolution can be extrapolated to explain the phenomena of macroevolution. At the risk of doing violence to the positions of some of the people at the meeting, the answer can be given as a clear, No. What is not so clear, however, is whether microevolution is totally decoupled from macroevolution. The two can more probably be seen as a continuum with a notable overlap.

参加者が取り組んだ問題は三つの大きなエリアに集約された。進化のテンポ、進化的変化のモデル、新しい生物の肉体的形状の制約。

The issues with which participants wrestled fell into three major areas: the tempo of evolution, the mode of evolutionary change, and the constraints on the physical form of new organisms.

重要な問題は多くの場合で古い形態から新しい形態へのスムーズな移行を化石は記録していないことである。「何百万年にもわたって化石記録の中で種は不変のままだ」とハーバードのスティーヴン・ジェイ・グールドは言う。「それから彼らは、かなり異なってはいるが、明らかに関係のある他のものによって置き換えられることで急速に姿を消す」。

But the crucial issue is that, for the most part, the fossils do not document a smooth transition from old morphologies to new ones. “For millions of years species remain unchanged in the fossil record,” said Stephen Jay Gould, of Harvard, “and they then abruptly disappear, to be replaced by something that is substantially different but clearly related.”

「確かに記録は貧弱だ」とグールドは認める。「だがあなたが見ている急変はギャップの結果ではない。進化的変化の突飛な[ jerky ]モードの結果なのだ。

“Certainly the record is poor,” admitted Gould, “but the jerkiness you see is not the result of gaps, it is the consequence of the jerky mode of evolutionary change.”

「私は種分化が、そう、5万年もかけて起きることを喜んで認めよう」。「だがそれはほとんどの種が存在する500万から1000万年と比べればほんの一瞬なのだ」。しかしもっとも熱狂的な断続主義者であっても進化の要因として漸進的な変化を追放したりはしない。

“I’d be happy to see speciation taking place over, say, 50,000 years,” said Gould, “but that is an instant compared with the 5 or 10 million years that most species exist.” However, even the most ardent punctuationists do not dismiss gradual change as a force in evolution.

現代的総合によって体現されている適応主義の万能の見解は覆される。討論でこの点についてメイナードスミスは抗議する必要を感じた。「これらの構造主義的なアイディアは現代的総合と相容れないものであるかのように提示されている。実際には、あなたはここでの大部分のアイディアを、私が25年前に書いた本や現代的総合の伝統に属する他の人々の本で見つけるだろう。」彼は明らかな懸念とともに付け加える。「あなたがたは存在しない知的な対立が、存在するかのように仄めかすことで、理解を妨げる危険を冒している」。

……グールドはより深刻な調子で加わった。「それは考慮していると言われてきたことだが、行われてきたことではない。我々が話している現象は現代的総合でずっと認められてきたかもしれないが、数十年間すべての研究を導いてきたのは適応主義だった」。

共通の基盤を探し、探求し、調査する[必要の]雰囲気はすべての参加者が感じた……

At this point in the discussion Maynard Smith felt moved to protest: “These structuralist ideas are presented as if they are antagonistic to the Modern Synthesis. In fact, you will find the major ideas here in a book I wrote 25 years ago and in the writing of many others in the tradition of the Modern Synthesis,” he said, adding with obvious concern, “You are in danger of preventing understanding by suggesting that there is intellectual antagonism where none exists.”

“You may have had the wheel, John, but you didn’t ride away on it,” Oster quipped with a telling metaphor. Gould added in more serious vein: “It is not so much what is said that counts, but what is done. These phenomena we talk about may have been acknowledged in the Modern Synthesis, but the principle guiding all the work of the past few decades has been adaptationism.”

David Raup, of the Field Museum, described the meeting aptly when he said that it had been “easier to identify the issues than to draw conclusions.” The atmosphere of questioning, probing, and seeking common ground was perceived by all present.

しかし関連しそうなフレーズで検索したが、あまり引っかからなかった。日本の創造論者にはあまり人気があるネタではないのか…。
進化論は正しいか?  松岡 平著 「真理とは何か?」より 津久野キリスト恵み教会出版部 発行

「1980年の進化論を討議するために、世界中の分子生物学者、発生学者、生態学者、生物学者がシカゴのフィールド博物館に集まった。会場は、たちまち伝統を派と改革派との対決の場と化した。多くの発言者とオブザーバーは会場の終わりのころには、進化論に関して歴史的変化が起きたこと実感した。
 討議のテーマは、過去40年間支配的だった新ダーウィン説ともいうべき”進化総合説”に関してであった。 —中略—会議中、出席者の心をとらえて離さなかったのは、個のレベルでの小さな遺伝子の変化の積み重ねが、果たして新種の出現という種のレベルでの変化を起こし来るのか、という問題であった。換言するとこの理論は、時間さえかければ種の中の個の、いろいろな遺伝的変化の累積的効果を生み、さらに自然淘汰の結果、最終的にまったく新しい種になるというものだが、これが本当なのかどうか、という問題である。そして結論を先に言えば、この学説は決定的なダメージを受けたのであった。
(アメリカ「サイエンス」誌 VOL.210より)

一見するとサイエンスに載った記事を正確に訳してあるかのようだが、誰かが要約したものをさらに要約したようである。それでも途中までは要約として正しい。が、最後の「そして結論を先に言えば、この学説は決定的なダメージを受けたのであった」はリューインの記事に相当する表現はない。

宗教の起源:適応か副産物か?

Trends in cognitive sciencesでオピニオンとして公開されたIlkka Pyysiäinenとマーク・ハウザーとの記事。短いが全訳するのもあれなので適当に抜粋。んでいつもの通り、意味が通りやすいように意訳。[ ]内の補足と強調は私。

The origins of religion : evolved adaptation or by-product?

適応か副産物か?

進化的な視点からは、人々が遺伝的に無関係な他人のためにしばしば犠牲を払うという事実は説明を要する問題である。人間が頻繁に宗教への奉仕として驚異的な犠牲を払うことから、一部の著者は、宗教信仰、特に神への信仰は、集団内の協力を容易にするための適応として誕生したと主張した。この主張にはいくつかのわずかに異なるタイプがあり、我々は以下でそれぞれを議論する。我々の中心のテーマは、人類集団の中で観察される特定のハイレベルな協力だけが可能というものだ。というのも人間は基準一貫[norm-consistent]した道徳直感と、一貫性のない行動を、そして善と悪に関する直感的な判断を進化させたためだ。この見解は、直感的な[意識されていない]宗教信念と明示的な[意識されている]それとを区別しなければならないのと同様、直感的な道徳プロセスと明示的なそれの区別を要求する。このように、宗教がどのように協力の進化に関係したかという疑問は二つの異なるレベルで問うことができる:一方は善悪、明示的な規範、個人の価値、法慣習に間する直感的な信念、それからもう一方は直感的な宗教信念、明示的な教義、宗教への参加である。

進化的適応としての宗教

Beringは、人間の社会環境において独特な選択圧への反応として進化した、精神的な不死性とシンボリックな意味を表す、空想上の表象を形作るための認知的なシステムがあると主張する。来世への信念が自然選択の直接の産物というわけではないが、明示的な[意識的に思い浮かべることのできる]宗教概念の存在に依存しない「推論の直観的なパターンが自然選択の産物として形作られた。このように「死後の世界というありふれた考えは、非直観的な逸話を通して人間の頭に埋め込まれるわけではない。すでに[頭の中に]存在している」のだ、人間の認知構造として、と言うわけだ。宗教とは、他の進化的な認知構造にうまく寄生するために文化の伝達の中で生き残る一連のアイディアのことだ。

宗教が進化的適応であるという議論の二番目は、宗教的な信念と儀式が、グループにコミットすることの高コストな[手間や労力がかかり適応度を下げる]シグナルだという主張である。他人の協力する意志を利用しようとするタダ乗り屋は識別される。というのもタダ乗り屋は、金を与えたり、多くの時間を宗教活動につぎ込んだり、儀式で進んで肉体を傷つけるような、フェイクするのが難しい高コストなコミットメントの顕示に関わらないからだ。このように宗教的な儀式やタブーは高コストなシグナルとして、文化的選択に基づいて集団内協力を促進する。行動経済ゲームでニュージーランドの匿名のキリスト教徒は明らかに多くをカナダのキリスト教徒に与えた。これは匿名のニュージーランド市民が同国民に与えるのよりも多かった。

宗教がどのように協力を促進するかという説明の一つは、大きな集団で観察されるような、霊魂や全てを見通す神を信じることは、自分が見張られていて、協調的な振る舞いは報われ、ズルをすれば罰されるという感覚を引き起こすことで、効果的に離反を防ぐからというものだ。このように道徳的な不正に対する超自然的な罰を人々が信じれば協力の意志は促進されるが、そのような罰への怖れは自然選択によって好まれた適応だ。この見解への支持は、同じ超自然的エージェントへのコミットメントが、大きな地理的範囲に広がり、異なる民族グループを含むコミュニティで、個人の行動を監視するコストを押し下げることができたことを示す研究から得られる。宗教的な向社会性は、大きな集団で協力の安定したレベルの進化を支える重要なメカニズムを提供したのかもしれない--互恵主義や評判への関心では不十分な状況下で。このようにズルを減らし、見知らぬ人への気前の良さを促進するのは、単なる宗教の集団的な側面ではなく、まさしく神への信仰である

副産物としての宗教

宗教の副産物説は二段階の議論に基づく。まず「宗教」は明確な境界や本質のない曖昧なカテゴリである。特定の信念や行動が宗教的か否かを決定するのは難しい。これは実体的な総体としての「宗教」のいかなる説明にとっても問題を引き起こす。副産物説はこの問題を、「宗教」という用語を明確な境界なしで、信念や行動の曖昧な集まりに言及するヒューリスティックな語として用いることで回避する。それは宗教の説明というよりもむしろ、宗教のあらゆる側面が一時に、歴史のある時点で誕生したという考えを否定している

第二に「神」や「永遠の命」のような概念は宗教のものと考えられているが、具体的な宗教的認知メカニズムは特定されておらず、副産物説はそれらの存在を予期しているわけでもない。たとえば神の概念から推論を引き出すことは、全てのエージェント[行為主体]概念から推論を引き出す助けとなる、マインドリーディングメカニズムを必要とする。このように神の概念は、実体的なエージェント[たとえば他者]の欲求や信念を認める標準的な能力[心の理論など]を、非実在的なエージェントまで拡張することに基づいている。

これらの認知機構のおかげで我々は他者の意識的な心理を推論し、意識的な心理を他者の意識的な心理に再帰的に埋め込むことができ、他者が何を考えているのかを考えることを可能にしてくれる。そこには不在の人間や、死んだ者の意図まで、あるいは空想上のキャラクターや超自然的エージェントまでが含まれる。宗教のために、あるいは神の表象のために専用化され、入力制限されたメカニズムを持ち出す必要がない。協力に関して、人間には多くの非宗教的で向社会的な認知構造がある。

超自然や宗教信念に関するこれら[の認知メカニズム]は互いに独立して進化して、そのような信念を持っているか持っていないかにかかわらず、人々の中で、まだ宗教を教え込まれていない幼い子供の中でさえも、同じように働く。

Beringらのような心理学的な実験や行動の計測は、一般に「宗教的な」信念や行動と考えられているものの認知的な基礎に関する有益な情報を与えてくれる。しかし機能から進化的な原因への[議論の]移行のためには、それらでは十分でない。よりあり得そうな見解は、我々が提案するものだが、全てというわけではないが、ほとんどの心理的要素は一般的な社会的相互作用の問題の解決のためにまず進化して、それから協力と同様に、神についての考えを含む宗教活動に取り入れられたというものだ

したがって宗教概念と信念は、道徳に関連した規範と価値の表現と正当化に動機づけられていて、またインスパイアされてもいるが、それはどんなグループのメンバー--チームスポーツでつきあった人々から、大学の学部メンバーまで--も結びつけることができる動機付けにも利用できる認知メカニズムに根ざしている。

この見解によれば、宗教はその起源において自然選択の結果として生まれたのではないが、選択の対象になりえて、観察されたバリエーションはいくらかの遺伝的な構成要素を持っていると仮定する。実際のところ宗教は、道徳的なアイディアを処理する安価な認知機構を提供し、グループの団結を作り強化する手段を提供するようだ。しばしば道徳は宗教なしでは成り立たないと主張されるように。

宗教ぬきの道徳?

一部の人々にとっては、宗教なしの道徳などあり得ない。他の人々にとっては、宗教は単なる道徳的直感の表れと正当化の一つにすぎない。宗教はいくつかの点で道徳と関連がありうる。道徳原理は神によって、祖先によって、あるいは聖人や神聖な人によって示される、従うべきモデルで決定される。あるいは神や祖先は人々が何をするかに注意を払うグループであると考えられている。このように人々は自分の道徳上の選択が決して自分だけのものではないと感じる。明示的な宗教信念と、宗教的直感の産物を明確に区別することは重要である。

たとえばBeringは非宗教的な問題であっても感情のような精神状態とプロセスが、たとえば飢えのような他のものよりも死後に継続しそうであると直観的に考えられるという実験的な証拠を示す。

Bloomは全ての人間が、我々「自身」が自分の体の所有者であると感じるが、自分と体は同じものでは無いと感じるという意味で、直観的な二元論者であると主張する。このように素朴心理学では体の死は個人性の終わりを意味しない。

その上、人間の推論は「見境のない目的論」--全ての物事に対して意図や意味を感じさせる能力--に特徴づけられているので、我々は自動的に、様々な出来事の説明としてエージェントを仮定する。これはしばしば神のような概念をとる。たぶんこのような傾向は宗教信念を「感染性」のあるものにするだろう。彼らは心の基本的な働きの多くに効率よく住み着くために、簡単に分散し、増殖するという点において。

宗教研究と道徳的直感研究のリンク

協力は、異なった文脈で規律違反者の処罰や規律遵守者の賞賛に用いることができる、一般化された直感的な善悪の概念を、人々が持つことを必要とする。ここで我々は当初、進化的適応としての宗教研究ではほとんど影響がなかった実験的、理論的文献を扱う:実験道徳心理学。……ここで我々は、道徳直感が宗教的バックグラウンドとは独立して働き、より重要なことに宗教的なインプットを必要としないという考えを示す一連の発見を提示する。実際にこの分野の研究のかなりが、道徳判断は、宗教と法習慣のどちらの明示的な指図からも比較的免疫があることを示している。

宗教学や、宗教の文脈外での道徳発達と道徳心理学には長い伝統があるが、初期の研究は幼児の道徳性の成熟の道筋、特に道徳行動と理性化に集中していた。しかしここ10年で直感の役割、特に善悪の判断(感情と心的状態の表象 mental state representationsを含む)の基礎となる認知と神経プロセスに関心がシフトした。いくつかの興味深い理論的な見解があるが、ここで我々は言語アナロジー linguistic analogy (LA)を取り上げる。というのもこれはユニバーサル性と文化的差異を考える際の具体的な概念的フレームワークを与えてくれるだけでなく、これまでのデータと整合性があると考えるからである。これは宗教が適応として進化したか、他の認知能力の副産物かの議論への新しい入り口を切り開いてくれる。要約すると、LAは我々の道徳心理学の構造、それから特にコミュニティの成熟したメンバーが道徳的な問題に対して用いる(無意識に働く)知識、そしてすべての子どもたちがそのような道徳能力を身につけるメカニズムに関する理論である。

この見解によれば、我々は他人の福利に関連して、行為主体の原因と意図の心理に対して働く一連の抽象的な原理ーー何人かが普遍文法にたとえた能力ーーが与えられている。LAは特定の原理が我々の種のすべてのメンバーに共有されているという強い予測を行う一方で、内容はバリエーションを受け入れる。おそらく言語におけるパラメータと同様のなんらかのセッティングによって形作られるのだろう。たとえば異なる手法と異なる集団で行われた様々な研究で、参加者は一貫して危害を引き起こす行動を、行動しないことによって同じ害を引き起こすよりも悪いと判断した。これはオミッションバイアス(省略バイアス)と呼ばれる区別だ。いくつかの研究では、一部の集団、特定の例ではオミッションバイアスを示さないかもしれないが、行動の省略が行動することよりも厳しく判断されるような逆転は滅多に観察されない。たとえばオランダは2001年に積極的安楽死と消極的安楽死のどちらも合法化する法案を通し、アメリカでは積極的安楽死が違法であるにもかかわらず、オランダ人はアメリカ人と同じくらい強いオミッションバイアスを示す。これは公的な道徳システムとしての法律が特定の行動への特定のガイドラインを果たすに過ぎず、そのような知識は素朴(folk)道徳直感に影響を与えたり変えたりできないことを示している。この見解によれば、そして上述したように、明示的な宗教コミットメントは法律に相当するようである。それは特定の行動への特定のガイドラインを提供するが、道徳直感システムからは分離されているようである。

結論

明示的な宗教性は、協調能力の根底にある道徳的直感に影響を与えることができないのだから、宗教は集団内協力のための究極的な源ではありえない。協力は宗教特有ではない一連の心的メカニズムによって可能となる。道徳判断はこれらのメカニズムに依存しており、人の宗教的バックグラウンドとは独立して働くようである。宗教は生物学的適応として起源しなかったが、グループ内の協力を助け、安定させる役割を果たし、そのため文化的選択のターゲットとなり得ただろう。宗教的なグループは非宗教的なグループよりも長く存続するようだ。将来的には、素朴な道徳直感と死後の世界、神、祖先に関連する直観的信念の関連を調べ上げるためのより実験的な研究が必要だ。多くの文化で宗教的な概念や信念が道徳感を概念化するスタンダードな方法になったようだ。すでに議論したようにこの関連は必須なものではないが、多くの人々はそうすることに慣れており、宗教を的にした批判は我々の道徳の存在への原理的な脅威と感じられるようだ

BOX3  未解決の問題

宗教思考と行動の基礎となる認知メカニズムのどれが宗教専用だろうか(そういう物があるとしたら)?そしてどれが他の知識の領域と共有されているのだろうか?
宗教思考と行動の媒体となる認知メカニズムは、どのように神経的に配置されているのか?
どんな範囲において宗教的なバックグラウンドは道徳に関係する行動に影響を与えるだろうか?(仮定的な状況に関する判断と対照的に)
子供たちはどのように宗教を獲得するだろうか?宗教が入力されるタイミングと本質はどんな物だろうか?
最初の宗教獲得は、それ以降の別の宗教獲得とは異なるだろうか?
特定の宗教行動は遺伝するだろうか?
宗教への遺伝的、文化的な関与はどのように共進化したか?
どのようにして適応主義的な見解と副産物的見解は統合できるだろうか?

宗教が適応か、他の適応の副産物かは種問題と同様の泥沼にはまりそうな気がする。結局のところ、適応の明確な定義がなく、便利な漠然とした概念として用いられているのだから。鳥の飛翔能力は一つの形質として長らく選択を受けてきたという点では適応と呼べるかもしれないが、飛翔のために進化したのではない様々な器官(羽や前肢、脳etc.)の副産物として起源したという点では副産物といえる。したがって宗教が適応か副産物かという議論は、宗教のために用いられる認知メカニズムのどれだけが宗教専用か、あるいは宗教のためにどれだけ調和して働くかという程度の問題になりそう。

”What Darwin Got Wrong”のつづき

ニューサイエンティスト誌のオピニオン欄にフォーダーとピアテリ=パルマーニの記事が載っている。最後に彼らが本を書いた理由を述べている。

自然選択は潜在的な帝国主義的傾向を示した。仮定的な環境における適応度の仮定的な効果をのべることで表現型の後付けの説明を創出することは、進化理論から他の多くの伝統分野、哲学、心理学、人類学、社会学、そして美学と神学にさえ広がった。一部の人々は本気で自然選択は万能酸であると、そしてその分解力に抵抗できるものは何もないと考えたようだ。

しかしこの帝国主義的選択主義を後退させる内在的な証拠は我々をひっぱたく。その信頼性は、適切な生物学が妥当性を与えると言われている自然選択の魅力に依存している。したがって自然選択が生物学から消えれば、他の分野からもその子孫は消えそうだ。これは大変渇望されている結末だ。たいていの場合、これらの子孫は後付けなだけでなく場当たり的で、粗雑で、還元主義的で、科学的であるよりも科学主義的で、恥知らずの自己満足で、データとぴったりはまる運命にあるそれらの詳細を欠いている。だがそのデータは明らかになるかもしれない。自然選択が真実かどうかはに関わらずこれは問題だ。

これが私たちが本を書いた理由だ。

これを読む限りでは、彼らは自然選択が実際に働くかどうかよりもむしろ、生物学以外の場所、人文社会学で適応主義的な説明(もしかしたら自然主義的な説明でさえも)やアプローチが取られることに反対しているように見える。

『ラカンは間違っている』

ラカンは間違っている

ディラン・エヴァンス
桜井直文監訳 冨岡伸一郎訳
2010年2月下旬刊行予定/予価1470円(税込)
という訳書が学樹書院から出るらしい。ミもフタもないタイトルだなあ。
96ページなので相当薄い。売れなさそうだ。著者のウェブサイトにも原著が(単著としては)挙げられていない。

追記:出版元によれば

エヴァンスの「ラカンは間違っている」は、もとラカン派の精神分析を行っていた著者がみずからの経験をもとに書き下ろした論文「ラカンからダーウィンへ」の翻訳、「4年後」の補筆、カウンセラーを務める訳者による解説からなるラカン批判の書です。

ということらしい。ともかく何かおもしろいことはないかとを漁ってみて、詳しい経歴を見つけたので、関係がありそうなところだけ抜粋。

私が理解できなかったちょっとした理由によって、ブエノスアイレスにはニューヨークシティよりも(単位人口当たりで)多くの精神分析家がいる。この分析家の驚くほど多くが「ラカン派」、つまりジャック・ラカンの難解な教えを受け継いでいる。ラカンはエキセントリックなフランスの精神分析家で、1953年に国際精神分析学会を脱会し自分のスクールを作った。ラカンはフロイトの考えの再解釈を提案した。それは最初はソシュール言語学の用語で示されていた。最初に私を彼に引きつけたのは、このラカンの言語学的な要素だった。私はラカン派精神分析に興味を持って、1992年にブエノスアイレスに戻ったとき、ラカン派分析家の精神分析療法に足を踏み入れて、分析家として訓練を受ける事を決めた。また、おもに自分自身のために怪しいアイディアを筋道立てるため、最初の本であるラカン派精神分析入門辞典(An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis)を書き始めた。アイディアは明白になりはじめたが、彼らはますます説得力を失っていった。最初の頃の懐疑にもかかわらず、ラカン派精神分析の訓練を続けるために、そしてカンタベリーのケント大学の人文学科で精神分析のMAを取る勉強のために1994年に英国に戻った。トレーニングと課程が進んだが、しかし私のラカンに対する疑いは、そして精神分析一般に対する疑いは増していった。それは衰えなかった。1995年に開業医に加わって、またサウスロンドンの臨床心理部で外来患者用の精神療法を提供していた英国NHSでパートタイムで働き始めた。結局、精神分析の効果と有効性への疑問は、もはや自分がはっきりとした良心を持つセラピストとして働き続けることができないと認識するほどに大きくなった。

私は全ての臨床の仕事を辞め、その仕事の間に私の心に生まれていた疑問に取り組むためにPhDを取ることに決めた。精神分析には何か維持する価値があるだろうか?代わりに我々が目を向けなければならない精神障害の他の理論には何があるだろうか?

私はバッファローのニューヨーク州立大学で有名なラカン学者と数ヶ月をともに過ごしたが、そこの恐ろしい天候とロンドンスクーオブエコノミクスからの魅力的なオファーで滞在は打ち切られた。LSEの哲学科はPhDのプログラムによって、私にロジックと科学的手法を学ぶ場を与えてくれた。LSEはまさに知的な議論の中心地だった。私は喜びとともにワクワクする空気に飛び込んでいった。そしてすぐさまヘレナ・クローニンの情熱的な姿と出会った。ヘレナは私に進化心理学を教えた。私は魅了された。ここには心に対する科学的に確かなアプローチがあった。フロイトとラカンの狂った考えとは対照的に。ヘレナが組織した公開セミナーのDarwin@LSEシリーズのおかげで、私は世界中の指導的な進化心理学の専門家と出会うことができた。私が最初の「漫画本」である『進化心理学入門』を書いたのはLSEで大学院生の時だった。ラカン派精神分析から進化心理学への知的な旅--ラカン派とダーウィン主義者の両方でまだ驚きを呼ぶ旅--の詳しい解説のため、The Literary Animalの一章のPDFがここにあるからクリックしてみて欲しい。

クローニンの学生だったとは知らなかった。