宗教は理性と科学の脅威か?

2008年4月にガーディアンに載った記事
デネットとロバート・ウィンストンがそれぞれ正反対の立場から宗教は理性と科学の脅威であるかを論じている。ロバート・ウィンストンはイギリスの医学者。信仰はユダヤ教。『人間の本能』という進化心理学風味の著作が邦訳されている。

デネットの主張はおなじみなので冒頭だけ抜粋。
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イエスーダニエル・デネット
もし宗教が理性と科学の進歩にとって最大の脅威でないとしたら、いったい何があるんだ?もしかしたらアルコールやテレビや習慣的なゲームがそうかもしれない。これらの社会悪は--実際には良くも悪くもある--それぞれ私たちの最善の判断を狂わせたり、重要な能力を曇らせたりするけれども、宗教には彼らの誰も自慢できないような特徴がある;宗教は不能にさせるだけでなく、不能さを誇りとするのだ。

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ノーーウィンストン卿
ダニエル・デネットはブレーズ・パスカルと並んでレースに勝つことはなさそうだ。パスカルは有名な賭をおこなった:「神への信仰を明言しても負けることはない--もし神が存在すしなければ失う物はない。もし神が存在すれば死後に報われるだろう」。デネットは神がいないかのように生きることがより良いと主張し、世界をより合理的でよりよい場所にしようと試みる。彼はカテドラルの建設が高コストであり、教会に通うことは時間の莫大な浪費だと指摘する。神がいないのならば無神論者は何も失うものがないーー彼あるいは彼女の足跡は良い行いばかりだろう。そしてもし慈悲深い神がいるなら、不信心を公言していることではなく分別[merits]によって裁かれると考えている。

宗教信念の進化的基盤についての彼のあり得そうな興味深い見解の問題は、信者の信念と感情を真剣に扱えないことのように思える。神が不同意を唱えるのはそれだけだろうか?多くの福音主義的な伝道師のように、他者の真剣な見解に心を開けと繰り返し述べているようだ。それでもデネットの世界では人間は「ブライト」とビリーバーに分けられる--そしてあなたが「ブライト」でなければ、あなたは知性で劣っているか、心を閉ざしているか、怖がりすぎのために彼の見解に同意できないのだ。

いくつかの点で彼はドーキンスと同じ罠にはまる。彼は宗教を知っていると思っているが、どうやらわずかにしか調べていないようだ:彼の論点の多く--たとえばユダヤ教徒の態度やムスリムの習慣--は重大な学究の欠如を示しているようだ。

デネットはドーキンスのように、穏健な宗教的な人々が、彼らの伝統における過激主義者の行き過ぎに対して何もしなかったという「事実」によって面目を失う。彼は誰を過激派と定義するだろうか?もし私がユダヤ教として全く不合理な食物律法[dietary laws]や、珍妙にも土曜日にはバス旅行をしないという決意をすれば、私は過激者ということになるだろうか?さらに進んでキッパをかぶり、私が住むロンドンの一部を囲むように結界[eruv]を作ったら、それは受け入れがたい行き過ぎだろうか?あるいは彼は分別のある宗教的なあらゆるユダヤ人が非難するような、危険な暴力に反対しているのだろうか?

宗教は人間の意識に組み込まれているし、凝集力[cohesive force]があることを示す豊富な証拠がある。我々の先史時代の祖先の生き残りは別として、現代において、超越的な意志が絶望的な状況で人間を奮い立たせた強固な例が存在する。ヴィクトール・フランクルは極限の困難の真っ最中に、アウシュビッツの人間性剥奪と絶望の中で(彼の評価では)ある種の精神性を持つ者だけ(必ずしも神への信仰というわけではないが)がキャンプの苦難をどのように生き延びたかを観察した。

デネットは科学が「真理」であると思っているようだ。私の優れた科学者の同僚の多くのように、彼は科学はある種の確信[a kind of certainty]であるという考えを広める。たとえば彼の本『Breaking the spell』で彼はミームについての見解を支持するEva Jablonkaを引用している。彼はJablonkaがドーキンスの進化への見解ーーデネットが明らかに情熱的に支持する見解ーーのまさに本質に疑問を呈していることを忘れている。

もしかすると彼はヨブ記を読み返したいと思うかもしれない。ほとんどがミステリアスでスピリチュアルなこの本を通してヨブは気長にも苦しみ続けるが、神の正義に対する彼の信仰は変わらない。しかし最後には憤慨を超えて、神の罰の不合理さに毒づく。物語のまさに最後で「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか?」。神は、彼が地球の基盤を作ったときに、ヨブがどこにいたかを尋ねる?我々はどこからやってきたか、どこへ行くのか、また我々の惑星の向こうに何があるのかを理解しているだろうか?

問題は、科学者が現在、あまりにも頻繁にこれらの問題、生命の神秘への答えをつかんでいると考えることだ。しかし奇妙にも、自然を探求するために科学を使えば使うほど、理解できず、説明が困難なことを発見する。現実には宗教と科学はどちらも人間の疑念[uncertainty]の表れだ。もしかするとパラドックスは、科学においてであれ宗教であれ、その確信が危険だということかもしれない。デネットの比較的緩やかな確信の危険はそれが我々の社会の二極化を促進することだ。両側の立場に柔軟性がなければ確信はまちがいなく理性と、そして科学への脅威となる。

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ウィンストンの反論は全体的に不明瞭でほのめかしが多くわかりにくいのだが、
1.宗教の進化的基盤の説明はその通りかもしれないが、「信者の気持ち」を扱えない。デネットのような宗教批判者は信仰を持つ人々を見下している。宗教批判者は宗教(あるいは信者)のことを「本当に」は理解していない。
→論点そのものではなく議論姿勢を批判。宗教批判者は宗教(あるいはビリーバーの気持ち)を本当に理解していないのだという反論。この二つはニセ科学批判と批判批判の文脈でもおなじみ。

2.宗教過激派と穏健な信者の境界は曖昧だ
→ドーキンスやデネットの議論では、穏健な宗教も過激な宗教も、それを支える信仰システムの論理は同じなのだから、穏健な宗教は過激宗教の温床になっていると主張されている。ウィンストンは意図を明確にしていないが、まさか「境界が曖昧だからどちらも批判できない/すべきではない」とは主張しないだろうから、穏健派と過激派を一緒くたに非難するなと言いたいのかもしれない。

3.宗教は人の意識に組み込まれている
→宗教信念は生得的であるとしても、そこからそれが「よいもの」だとは限らない。自然主義的誤謬に足を突っ込むことになる。でもこの文脈ではそう仄めかしているようにしか解釈できない。

4.宗教あるいは何らかの超越的な意志は困難を乗り越える力を与える
→ウィンストン自身も必ずしもそれが宗教でなければならないとは述べていない。また「何らかの強い信念」と「アウュシュビッツでの生存」の間に相関が見られたとしても、信念が生存の原因だとは限らない。もし信念が人に何かの力を与えるのが事実だとしても、それは常によい結果に結びつくとは限らない。自爆テロへの「勇気」を与えているのも同じ種類の信念かもしれない。

5.我々はまだこの世界をよく理解していない。科学者が世界の全てを説明可能だと見なすのは行き過ぎである。科学的探求は理解不可能なこと、説明困難なことを増やす。
→公共のあいだでの科学者への不信を強めないために科学者は謙虚であれと述べているのか、それとも「科学で説明できないことは神のせい」を仄めかしているのか不明。
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一般大衆へ宗教に理解ある科学者もいるのだとアピールするために述べているのか、それとも本心を語っているのかで異なる解釈ができる、かなり曖昧な反論になっている。ただどれもすでに出尽くしている主張なので、いまいち切れ味の良さは感じられない。

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