エソロジーの中で育つ (1)

[ ]の中は訳者による補足と註と訳が怪しいところ。その他、断りなく大幅に意訳した部分多数。
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幼少時代と学校
私が幼いナチュラリストだったらよかったのだが。私には多くの有利な点があった。熱帯アフリカの完璧な環境だけでなく、そこへ飛び込む完璧な遺伝子の点でも。数代にわたって、日焼けしたドーキンス家の足はカーキ色の短パンをはいて帝国のジャングルを歩き回っていた。ドーキンス家の祖父はビルマのチーク林でゾウの木こりとして雇われていた。父の母方の叔父はネパールの森林管理官のチーフだった。彼の妻は恐ろしく堂々とした作品『Tiger Lady』の著者だ。彼らの息子は決定版のハンドブックと言える『Birds of Borneo』と『Birds of Burma』を書いている。父や彼の二人の弟と同じように、私も[日よけのための]ピースヘルメットをかぶって産まれたようなものだ。

父自身はオックスフォードで植物学を専攻した。そしてニアサランド(現マラウィ)の農政官僚となった。戦争の間、彼は徴兵されてケニヤで軍務についた。1941年に私はそこで産まれ、人生の最初の2年間を過ごした。1943年に父はニアサランドに呼び戻され、今度はそこで8歳になるまで育った。それから両親と妹と私はイングランドに戻り、1726年以来ドーキンス家が所有しているオックスフォードシャーの農場で暮らした。

父の真ん中の弟を通じて、私はすでに有名だったが超有名というほどではなかった若きデイヴィッド・アッテンボローと会った。その叔父は我が家のカーキ色短パンの伝統を実行するためにシエラ・レオネを選び、デイヴィッド・アッテンボローは撮影探検で訪れていたその地で叔父の客となった。

叔父と叔母がイングランドへ移住し、たまたま私が彼らと一緒だったとき、デイヴィッドは若い息子ロバートを連れて訪ねてきた。彼は私たちに魚網とジャム壺を持たせ、短パン姿で水路や池を一日中歩かせた。私たちが何を探していたのかは忘れてしまった。イモリかオタマジャクシか、ヤゴだったかもしれない。だがその日のことは決して忘れることができない。しかし世界最高にカリスマティックな動物学者との経験でさえ、最初からそうでなければならなかった少年ナチュラリストに私を変えるには十分ではなかった。

父の一番下の弟はウガンダの先駆的な森林生態学者だった[ヘンリー・コリアー・ドーキンス(1921-1992)]。彼は後年オックスフォードに移り生物統計学を教えた--難解なアイディアを簡単な言葉で説明する比類無き才能を持った教師だった。これが『遺伝子の川』を彼に捧げた理由だ。

若い頃の私は、家の伝統に幕を下ろしそうだった。私は両親からありとあらゆる励ましを受けた。二人ともコーンウォールの丘や高山で出会うあるあらゆる野草の名前を知っていた。しかも父は学名を披露して妹と私を楽しませてくれた(子供は意味がわからなくても言葉の響きを好むものだ)。イングランドに到着した直後、背が高くハンサムな祖父(ちょうどビルマの森から引退していた)が窓の外のアオガラを指さして、それが何か知っているかと尋ねたとき、私は動揺した。私は知らなかった。惨めに口ごもって「ズアオドリかな?」と言うと祖父はあきれかえった。ドーキンス家ではそのような無知はシェークスピアの名前を知らないに等しかったのだ。「なんと言うことだ、ジョン」--祖父のその言葉を忘れたことはない。父の優しい弁護も忘れたことはなかったが--「ありえんことではないか?」。もし祖父が今も生きていたら、野生生物の観察を愛することを学んだのが遅かったのだと弁明できただろう。私の生物学への最初の興味は森と野原からではなく、本からやってきた。

私は人の目を避けて本の虫になった。全寮制学校の休日には本を持ってベッドルームにこっそり忍び込んだ。新鮮な空気とすばらしいアウトドアからの罪深い逃亡者だった。学校で正式に生物学を学び始めたときにもまだ書物上の娯楽が私の心を捉えていた。私は大人たちが形而上学的だと言った疑問に引きつけられていた。生命の意義とは何か?なぜ私たちはここにいるのか?どのように生命は始まったのか?生物学はこれらの深遠な疑問に答える直前にいるが、それは私がオンドル校で生物学へ足を踏み入れることになった理由ではなかった。もしかすると父の足跡をたどりたいという気持ちがあったのかもしれない。しかしそれだけでなく、本当にインスピレーションあふれる若い教師のおかげでもあった。I.F.トマスはオンドルの偉大な校長、F.W.サンダーソンの伝統を教えようと意識的に試みていた(ラグビー校にはアーノルドが、ストー校にはロクスバラーが、そしてオンドルにはサンダーソンがいた)。サンダーソンは1922年に亡くなっているのでヨアン・トーマスは彼に会ったことはなかったが、サンダーソンの理念に従って生きていた。私が2002年にオンドルレクチャーで語り、その後『悪魔に仕える牧師』(2003)に収録したように:

サンダーソンの死後およそ35年目に、私は淡水の止水域に住むヒドラについての授業を思い出した…トマス先生は、私たちの一人に「どんな動物がヒドラを食べているのでしょう?」と尋ねていった。その子は当てずっぽうを言った。合っているかどうかははっきりさせないままでトマス先生は次の子に同じ質問をした。これをクラス全員に、一人一人の名前を呼ぶたびに興奮の度合いを強めながら「どんな動物がヒドラを食べているのでしょう?どんな動物がヒドラを食べているのでしょう?」と尋ねていった。そして私たちは一人一人自分なりの推測をした。彼が最後の生徒にたどり着いたときには、私たちは本当の答えを知りたくてうずうずしていた。「先生、先生、どんな動物がヒドラを食べているのですか?」。トマス先生は全員がシーンと静まりかえるまで待っていた。それから、ゆっくりと、一つ一つの単語のあいだを開けながら、はっきりと話したのだった。

「私は知らないんだよ…(しだいに声を大きくしながら)私は知らないんだよ…(もっと声を大きくして)それにコールソン先生も知らないと思うよ。(きわめて強く)コールソン先生!コールソン先生!」

彼は隣の教室のドアを乱暴に開けて、自分よりも年上の同僚の授業を劇的に中断させて、自分の教室へ引っ張ってきた。「コールソン先生、どんな動物がヒドラを食べているかご存じですか?」。二人の間で何らかの目配せがあったかどうか私にはわからなかったが、コールソン先生は見事に自分の役割を演じた。知らないと言ったのだ。またしても、父親のようなサンダーソンの影が隅っこでクスクスと笑っていた。そして、私たちの誰一人としてこの授業のことは忘れないだろう。問題は事実ではなく、あなたがそれをいかにして発見し、それについてどう考えるかが問題なのだ。真の意味の教育は、今日の評価に狂奔する試験文化とは非常に異なったものなのである[邦訳書pp109-110]。

そのような教師を考えれば、私がなぜ生物学を選んだかを理解するのは難しくないだろう。残念ながら私は生物学でも、その他のことでも輝いてはいなかったのだが。私はオンドルのミュージックスクールで相当な時間を費やした。クラリネットかサクソフォンやほかの楽器[indeed any other instrument that I might come upon unguarded]を持ってあたりをぶらついていた。音楽は得意ではなかったが、いつも楽器に魅力を感じていた。私は正確に、練習なしで、誰かが口笛や鼻歌で歌うのとほとんど同じくらい簡単にどんな曲でも演奏する才能があった(今でもある)。この器用な才能によって譜面を読むのをさぼりたいという誘惑にいつも駆られており、その誘惑にすぐに屈服した。その結果、私は楽器に膨大な時間を費やしたにもかかわらず、それほど多くは演奏しなかった[I didn’t play them so much as tootle]。良い時間の費やし方ではなかった。

どんな理由があれ、学校の科学の試験の成績は平均とたいして違わなかった。オンドルで過ごした時代が無駄だったとは言わないが、しかし最大限に利用したと言うこともできない。詩に対する私の愛情は、おそらくほとんど両親のためだろう。彼らはイェーツとハウスマンとルパート・ブルックを教えてくれた。最初の年に私の担任の教師(取っつきにくい[Snappy]聖職者だった)がシェイクスピアとキプリングを読んで私の心を動かしたけれど。オンドル校は英国中のいかなる学校よりもすばらしいワークショップを開いていた。それはサンダーソンの時代に遡るユニークな伝統で、学期ごとに全生徒を一週間丸ごとワークショップへ送り込むのだ。一日中、ワークショップ週間の間は毎日、通常の授業は中断された。私たちはグレーのスーツの上に茶色のオーバーオールを羽織って、(少なくとも理屈上は)切磋琢磨のために取り組んだ。

だがそれは理屈にすぎなかった。問題の一部はワークショップの設備が良すぎたことだ。それに私たちは適任の教師によってではなく、教育について何の考えも持っていないワークショップの技術者によって手取り足取り監督された。教えられたことを先進的な高価な機器で正確に行った。私たちはそれぞれ何か、ほかの誰かが作っているものと全く同じように見える何かを作ることになっていた。ある学期には「マーキングゲージ」で、次には「ドリルスタンド」という具合に。私はマーキングゲージがなんなのかもわからなかった。工場のライン労働者のように、旋盤やほかの大きな先端機器を操作するときに指示に従う方法を学んだ。たぶん何人かは創意工夫や発想力、臨機応変さ、デザインなどを学んだだろう。でも私は間違いなく学ばなかったし、興味もわかなかった。そのとき私はそんなことは考えなかったが、きっとサンダーソンは草葉の陰で困惑していたに違いない。

Childhood and School
I should have been a child naturalist. I had every advantage: not only the perfect early environment of tropical Africa but what should have been the perfect genes to slot into it. For generations, sun-browned Dawkins legs have been striding in khaki shorts through the jungles of Empire. My Dawkins grandfather employed elephant lumberjacks in the teak forests of Burma. My father’s maternal uncle, chief Conservator of Forests in Nepal, and his wife, author of a fearsome ‘sporting’ work called Tiger Lady, had a son who wrote the definitive handbooks on the Birds of Borneo and Birds of Burma. Like my father and his two younger brothers, I was all but born with a pith helmet on my head.

My father himself read Botany at Oxford, then became an agricultural officer in Nyasaland (now Malawi). During the war he was called up to join the army in Kenya, where I was born in 1941 and spent the first two years of my life. In 1943 my father was posted back to Nyasaland, where we lived until I was eight, when my parents and younger sister and I returned to England to live on the Oxfordshire farm that the Dawkins family had owned since 1726.

It was through my father’s middle brother that I met the young David Attenborough, already famous but not yet a household name. This uncle chose Sierra Leone for his enactment of the khaki-shorted family tradition, and David Attenborough was his guest on a filming expedition up country. When my uncle and aunt moved to England and I happened to be staying with them, David brought his young son Robert to visit, and he had us wading all day in shorts through ditches and ponds with fishing nets and jam jars on strings. I’ve forgotten what we were seeking – newts or tadpoles or dragonfly larvae, I expect – but the day itself was never to be forgotten. Even that experience with the world’s most charismatic zoologist, however, wasn’t enough to turn me into the boy naturalist that I should have been from the start.

My father’s youngest brother was an innovative forest ecologist in Uganda. He later moved to Oxford, where he lectured in biological statistics – a teacher of genius with an unmatched ability to explain difficult ideas in simple language. It was for this that I later dedicated a book, River Out of Eden, to him. The worst he could say of a young man was “Never been in a youth hostel in his life”; a stricture, which, I am sorry to say, describes me to this day. My young self seemed to let down the traditions of the family.

I received every encouragement from my parents, both of whom knew all the wildflowers you might encounter on a Cornish cliff or an Alpine meadow, and my father amused my sister and me by throwing in the Latin names for good measure (children love the sound of words even if they don’t know their meanings). Soon after arriving in England, I was mortified when my tall, handsome grandfather, by now retired from the Burma forests, pointed to a blue tit outside the window and asked me if I knew what it was. I didn’t and miserably stammered, “Is it a chaffinch?” Grandfather was scandalized. In the Dawkins family, such ignorance was tantamount to not having heard of Shakespeare: “Good God, John” – I have never forgotten his words, nor my father’s loyal exculpation – “Is that possible?” If Grandfather were alive today, I would explain that I learned late to love watching wild creatures: my original interest in biology came not from the woods and moors but from books.

For I became a secret reader. In the holidays from boarding school, I would sneak up to my bedroom with a book: a guilty truant from the fresh air and the virtuous outdoors. And when I started learning biology properly at school, it was still bookish pursuits that held me. I was drawn to questions that grown-ups would have called philosophical. What is the meaning of life? Why are we here? How did it all start? Biology comes closest to answering these deep questions, but that wasn’t the reason I ended up in the biology stream at Oundle School. It was probably a bit of following-in-father’s-footsteps, but also a genuinely inspirational young teacher. I.F.Thomas deliberately set out to teach in the tradition of Oundle’s great headmaster, F.W.Sanderson (there was Arnold of Rugby and Roxburgh of Stowe . . . and there was Sanderson of Oundle). Sanderson died in 1922 so Ioan Thomas never met him, but he lived up to Sanderson’s ideals, as I recounted in my inaugural Oundle Lecture in 2002, later reprinted in A Devil’s Chaplain (2003):

Some 35 years after Sanderson’s death, I recall a lesson about Hydra . . . Mr. Thomas asked one of us “What animal eats Hydra?” The boy made a guess. Non-committally, Mr. Thomas turned to the next boy, asking him the same question. He went right round the entire class, with increasing excitement asking each one of us by name, “What animal eats Hydra? What animal eats Hydra?” And one by one we guessed. By the time he had reached the last boy, we were agog for the true answer. “Sir, sir, what animal does eat Hydra?” Mr. Thomas waited until there was a pin-dropping silence. Then he spoke, slowly and distinctly, pausing between each word.

“I don’t know. . .” (Crescendo) “I don’t know. . .” (Molto crescendo) “And I don’t think Mr. Coulson knows either.” (Fortissimo) “Mr. Coulson! Mr. Coulson!”

He flung open the door to the next classroom and dramatically interrupted his senior colleague’s lesson, bringing him into our room. “Mr. Coulson, do you know what animal eats Hydra?” Whether some wink passed between them I cannot say, but Mr. Coulson played his part well: he didn’t know. [Again] the fatherly shade of Sanderson chuckled in the corner, and none of us will have forgotten that lesson. What matters is not the facts but how you discover and think about them: education in the true sense, very different from today’s assessment-mad exam culture.

With such a teacher, it isn’t difficult to see why I chose biology. Unfortunately I didn’t shine at that or any other subject. I spent too much of my time in Oundle’s Music School, fooling around on the clarinet or saxophone, or indeed any other instrument that I might come upon unguarded. I wasn’t good at music, but I had always been drawn to musical instruments and I had (still have) the ability to play, correctly and without practice, any tune almost as easily as one might whistle or hum it. This facile gift provided a constant temptation – and I readily succumbed – to dispense with reading music. The result was that, although I spent an inordinate amount of time with musical instruments, I didn’t play them so much as tootle. Not time well spent. For whatever reason, my performance in science examinations at school was no better than average.

I won’t say my time at Oundle was wasted, but I cannot claim to have made the best of it. My love of poetry probably came mostly from my parents, who gave me Yeats and Housman and Rupert Brooke, although my form master in my first year, Snappy Priestman, moved me with his readings from Shakespeare and Kipling. Oundle had the finest workshops of any school in the country and a unique tradition, dating back to Sanderson, of sending every boy into the workshops for a whole week in every term. All day, every day during the Week in Workshops, normal lessons were suspended; we donned brown overalls over our grey suits and – in theory at least – worked at becoming good with our hands. But only in theory. Part of the problem was that the workshops were too well equipped and we were too closely supervised – not by proper teachers but by workshop technicians with no idea of pedagogy at all. We did exactly what we were told, on advanced and expensive machines, and each of us ended up making something – a ‘marking gauge’ one term, a ‘drill stand’ the next – that looked exactly like what everybody else was making. I didn’t even know what a marking gauge was. Like labourers on a factory production line, we learned how to follow instructions when operating a lathe or other large piece of advanced machinery. Maybe some of us learned ingenuity, inventiveness, improvisation, resourcefulness, design, but I certainly didn’t, and there was no incentive to. It never occurred to me at the time, but Sanderson must have been spinning in his grave.

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RDFでうpされたドキュメントファイルより。この自伝はLeaders of Animal Behaviour – The Second Generation.に収録されたもので、エソロジーの第二世代を牽引した人たちの自伝集らしい。R.D.Alexander、P.P.G.Bateson、M.J.West-Eberhardなど18人が収録されている。

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