科学と宗教に互換性はあるか? -その3.1

スペルベルの記事の続きを読むためにEdgeに行ったら面白そうな話題を見つけてしまった。
http://edge.org/3rd_culture/coyne09/coyne09_index.html
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「真の問題」と生物学者ジェリー・コインはニュー・リパブリックの「見ることと信じること」という記事で書いた。その問題とは宗教と科学の間に哲学的な互換性があるかどうかだ。科学の経験主義的な性質は、宗教の啓示的な性質を否定するだろうか?二つの間のギャップは、それらが本質的に相反すると考えなければならないほど深いだろうか?

もはや公立学校でのインテリジェント・デザイン教育の支持を公表したジョージ・ブッシュ大統領も、上院議員のリーダーのビル・フリストも、ジョン・マケインもいない。それはコイン、ドーキンス、デネット、ハリス、ヒッチンズ、マイヤーズのような迷信、超自然、無知に容赦ない反対キャンペーンを行う合理思考の擁護者に動員令が下った瞬間だった。コインが指摘したように、我々のジレンマは、現代の科学的知識に反して、その三つの単語が厳格な原理主義者のテキストだけでなく、もっとも洗練された自由主義神学の一般社会から切り離された神学的おまじないにも適用できることだ。

就任式でオバマ大統領は「科学をあるべき位置に戻す」という目標を発表した。同時に同じスピーチで無宗教者は信仰を持つ者と同じようにこの国の一員であると認めた。信仰の欠如を公言する科学者の増大を考慮して、今いくつかの疑問を発するときではないだろうか?デネットが描写した「信仰を信仰すること」は良いことだろうか?故スティーヴン・ジェイ・グールドが主張したような、宗教と科学が真実に到達するためにそれぞれ独立した方法で発言する「重複することなき教導権」にはメリットがあるだろうか?今まさに、科学と信仰に互換性があるかどうかを率直に議論するときではないだろうか?

しかしコインが指摘したように:

そんなに簡単だったらいいのになあ!実際に宗教的な科学者とダーウィン主義の教会人がいる。しかしこれは二つの姿勢が一人の人間の心の中に存在できるという平凡な意味を除いて、信仰と科学が互換性を持つことを意味しない(それは一部の既婚者が不倫をするからといって、結婚と不倫が互換性を持つというのと同じだ)。聖書を文字通り読むのを止めれば--それがもっとも原初的なユダヤ=キリスト教の感覚だし--緊張がいくらか解消するのも本当だ。それでも緊張は残る。真の問題は宗教と科学の間に哲学的な互換性があるかどうかだ。科学の経験主義的な性質は宗教の啓示的な性質を否定するだろうか?二つの間のギャップは、それらが本質的に相反すると考えなければならないほど深いだろうか?この問題を扱う本が絶え間なく流れていくのは、答えが簡単ではないということを示している。

これから数日に渡って、Edgeはこの問題に発言している中から選ばれた人たちの短い返答を掲載する。
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以下、「見ることと信じること」からの抜粋(これもEdgeより)

…残念なことに、理神論の傾向を持つ一部の神学者は、自分が全ての信者を代弁していると考えている。宗教の複雑な歴史に沈まないようにドーキンスと同僚たちは神の存在に対する巧妙な神学議論の全てに取り組まなかったとこれらの批判者は非難した。特にドーキンスは”中途半端な知識で”『神は妄想である』を書いたと批判された。だがそれは的外れだ。確かに彼は中途半端な知識で本を書いた。しかし、まさに現実の人々が暮らし、実践しているのと同じような視点から宗教を議論した。

多くのリベラルな神学者が宗教と進化が調和すると考える理由は、ほとんどのアメリカ人にとって異世界的であり認識もできないような神学を彼らが支持しているからだ。統計はこの非互換性を支持する。たとえば調査された34カ国の中で信仰の程度と進化の受容の間に強い負の相関を見つけることができる。デンマーク、フランス、日本、それからイギリスはダーウィニズムの高い受容と神への信仰の低さを示す。しかしブルガリア、ラトビア、トルコ、そしてアメリカでは事態が逆だ。アメリカの中では科学者集団は非科学者よりも信心深くない。統計が哲学論争の結論を決定できるということではない。科学の受容が信仰を浸食するか、あるいは信仰を持つことが科学の受容を妨げるかをこの統計が意味しているかどうかも重要ではない(どちらのプロセスも起きているに違いない)。これらが示すのは人々が両方を同時に受け入れるのは簡単ではないということだ。それぞれの世界観の枠組みを考えれば、驚くことではない。

この不和は科学界の恥だ。科学と宗教が完全に調和していると宣言することは個人的、職業的な関心においてのことだ。結局のところ我々は政府の補助金がほしいし、子供たちは創造論ではなくて真の科学に曝したい。宗教的にリベラルな人々は創造論との戦いで重要な同盟者だったし、我々がどう感じているかを宣言して距離をとってしまうのは喜ばしいことではない。だから戦術上の問題としてNASのようなグループは宗教と科学が衝突しないと主張する。だが彼らの主要な証拠--宗教的な科学者の存在--は信仰の欠如を声高に叫ぶ科学者の増加によってほころびている。

現在、我々はダーウィンイヤーを迎えている。ケネス・ミラーとカール・ギバーソンのような本が増えるのは予想できる。神と進化を調停する試みは知的な流れ作業から次々と生み出される。調停は決してうまくいかない。だから流れ作業は決して止まらない。

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実際の返答はまた別のエントリに。

9/22 少し訳を訂正