進化神学

コインのブログより。
-+-+-+-
ダニエル・デネットはケンブリッジ大学のダーウィン祭に参加し、信仰と宗教に関する二つのシンポジウムについてこのリポートを送ってくれた。シンポジウムは私がすでに述べたように、テンプルトン財団によって後援されていた。ダンはこのリポートをブログで公開することを親切にも許可してくれた。

私はケンブリッジ大学のダーウィンウィークパーティに出席していた。まず最初の日の二つのセッションは進化と神学についてで、テンプルトン財団に支援されていることに気付いた(寄付者と講演者のリストにはテンプルトン財団を思わせる物は何もなかったけど)。わたしは種分化に関する面白そうなセッションを止めてそちらに参加した。

私たちは「大きな問題」--よく用いられるフレーズだ--について聞かされた。それは新無神論者がナイーブに支持するだろうと思われる次の提案についてだった:「科学に答えることができない意味のある疑問はない。」

リチャード・ドーキンスの、旧約聖書の神がどれだけ恐ろしいかに関する素晴らしい文章がカリフォルニアのクレイモント神学スクールの教授フィリップ・クレイトンによって楽しげに読まれるのを聞いた。要点はあきらかにそれら無神論者の無教養ぶりを述べることだった。--彼は言わなかったが、彼のヤハウェの評価はリチャードと一致していないと私は気付いた。

私が思うに、それ以外の点については威厳があり莫大な尊敬に値する伝統の、戸惑わざるを得ない汚点に注意を引いたリチャードの品のなさを仄めかしていたようだ。より大きな論点は無神論者が「大きな問題に対して軽蔑的な態度を持っている」ことへの不満、そして特にドーキンスが神学者の意見を聞かないことだった(H・アレン・オア、みんなあんたの歌を歌ってるよ)。クレイトンは神の性質を箇条書きすることで私を驚かせた。彼のとても自然主義的な神学によれば、神は全能ではない、神は超自然でもない、それから…。簡単に言えばクレイトンは神を認めない無神論者だ。

次の話はプリンストン神学セミナリーの神学教授J.ヴェンツェル・ヴァン・ヒュイスティーンの「神学人類学」についてだった。それは具現化された精神について、一生懸命で回りくどい表現で満ちあふれていた。フランス・ドゥ・ヴァールやスティーブン・ミズンらによって描写された進化的な挿話で飾り立てられていた。

ディスカッションの時間にはもううんざりしていて講演者に立ち向かう気力がなかった。「私はダン・デネットです。黙示録の四騎士の一人です。最高の神学者と話して宿題をしなさいといつも言われ続けています。私はあなた方二人のお話を聞きました。あなたはそれが学際的な探求--進化神学--であると言っています。しかしわたしはまだ神学がその探求に何を貢献できるのか教えてもらうのを待っています。あなたはダーウィンのようにご自身の神学をかなり弄りました。私はそれに拍手を送ります。それでどんな関係が、もしあるならですが、 私が見逃している物が何かあるでしょうか?まだ科学や世俗的哲学が立ち向かっていない物で、神学が示せたり答えられるような問題は何ですか?あなたがこの学際的なプロジェクトにはっきりと示せる物は何かありますか?」(のような感じのことを言った)。 どちらの講演者も何も提示せず、「大きな問題」に興味がある全ての科学者が関心を持つはずの神学的知識のどんな例でも示すことなく、少ししゃべっただけだった。

しかし私は新しい言葉を学んだ。ケノティック神学のケノティック:Kenotic。それは「自分自身を空にする」と言う意味のギリシャ語のケノシスに由来する。神に対する正直さを表している。この新しいケノティック神学はあちこちで大流行している。それは「ダーウィニズムに適応することでより深遠なクリスチャンでいること」だ(わたしがでっちあげたんじゃありませんよ)。私は私はこの新語を知って嬉しいと言い、その名の通りケノティック神学に従って生きる気になったと言わざるを得なかった。

コーヒーブレイクの時に何人かが私の質問があの講演の埋め合わせとなったと言った。しかし私は他の人々を、熟考を求めるような私のくどい要求でイライラさせたのではないかと思う。ふたつの講演の第二セットの後で、司会が私の挑戦に対してさらなる返答を約束したので私は聞かなければならなかったのだが、討論の時間がさらに30分あった。私は自分の義務を果たしたと思う。注意して聴き、質問した。神学者の答えはこちらが困惑するほどわずかな物だった。一人は汎心論についてデイヴィッド・チャーマーズを勧めたけど、--彼は哲学者だ、神学者ではない--しかし私が知っている限り誰も、チャーマーズだってそうだが、汎心論をまじめに受け取らない。神学者はそうするだろうか?

三人目の講演者はケンブリッジ大学のデニス・アレクサンダーだった。彼は全ての生物が一本の生きた糸から誕生したという推測(面白い読みだ!)を行ったエラズマス・ダーウィンからダーウィン、スペンサー、ハクスリー、そしてグールドとドーキンス(と私)までの思想家によって提案された、進歩や目的における様々な立場の、興味深い歴史的な研究を行っている。特に面白いのはグールドの最後の本からの引用だ。そこでグールドはずっと持ち続けていた偶発性の議論に反して、進化が無視できない「方向の特性」を示すと認めた。アレキサンダーの結論は、近年ではやや「進化のプロセスにはより大きな目的がないと必ずしも言えるわけではないというのが、よりもっともらしい」というものだった。これは確かに慎重で妥当な結論だ。

4人目の話者はカトリックの神父フレーザー・ワット(ケンブリッジの神学スクールの人で、テンプルトンから膨大な援助を受けている)だった。彼は私たちに進化神学を紹介した。繰り返すけどでっち上げてはいない。

進化は、結局は、知性ある神が種を具現化する能力を持つものとして作るために計画された。各々の種の能力は、ワッツの意見では「スパンドレル」であるかも知れず、イエスは「霊的な変異」であり「進化のプロセスの最高点」で、世界史の転換点を記した。聴衆はおもしろがってワット師にイエスの両親は普通の人間だったと言っているのかを尋ねた(おそらくイエスが母方から受け継いだ遺伝子は自然選択の産物だったろうが、父方から受け継いだ遺伝子は精霊の手作りだったのではなかろうか!-しかし彼はイエスの両親についての知識や意見を持っていないと宣言することでこの質問に応じた。)

その後、私はセッションを楽しんで何かを学んだかと尋ねられた。私はそうしたと認めた。私は立派な洗練されたキリスト教神学者を汚く劇画化したと非難されることを恐れて「進化神学」の語を使う勇気がなかった。しかしその用語が洗練された神学が進化生物学に提供できる知識として何度も使われており、将来も引用され続けるだろうと聞いた。

私はセッション終了後にお告げを聞いたが、秘密にしていた:聖餐式はじつは真核生物革命の反復現象だ。キリスト教徒が消化することなくキリストの体をまるごと摂取するのは、最終的に多細胞生物への道を拓いた細胞内内部共生の奇跡の再現だ。それから、心から愛する同胞、キリストを私たちの体の中で無事に保つことで私たちの実体化された精神、魂の中に主の力を保つことができるのを、我々は見ることができる。これこそまさに最初の真核生物が、その子孫が高度な組織化で力を合わせることができるようになった現実世界の能力の二重の祝福を得た方法だ[And so, dearly beloved brethren, we can see that by keeping Christ intact in our bodies we are keeping His Power intact in our embodied Minds, or Souls, just the way the first Eukaryote was vouchsafed a double blessing of earthly competence that enabled its descendants to join forces in Higher Organizations.]。

進化神学ねえ・・・私はそれが理解できそうだ!実践もできる!それは本当に、ネットを張っていない知的なテニスのような物だ。パスカル・ボイヤー、D.S.ウィルソン、マイケル・ルースとハーヴェイ・ホワイトハウスの宗教の進化に関する別のセッションもあった。我々の進化神学者、フレーザー・ワット博士がそのセッションの司会だった。その飼い葉桶の中の哺乳類たちがどれだけ従順かを見るのは面白いだろう。

第二部

テンプルトンが後援する第二のセッションはそれほど見苦しくなかった。宗教の進化に関するもので、パスカル・ボイヤーとハーヴェイ・ホワイトハウスによる事実を列挙したプレゼンテーション、D.S.ウィルソンのいつも通りのマルチレベル選択説の宣伝、マイケル・ルースのこちらもいつも通りの、あちこちに飛ぶ個人的な演説が特徴だった。司会は我らが進化神学者フレイザー・ワット氏だったが、洗練されて中身のない仲裁だった。(私は疑問に思うのだが、神学(christology)は大文字で書かれなければならないだろうか?[I wonder: should “christology” be capitalized? ] イワン・マキュアンは私にX線神学があり得るかどうか尋ねた。私はそれが神学におけるクリックとワトソンの科学革命への道を拓くところを夢想して楽しんだ!)

私はセッションでいくつか学んだ。ボイヤーは、分離しており大部分が独立しているさまざまなアイテムのごった煮を「宗教」として「パッキング」する説得力あるケースを提示した。彼によれば宗教は習慣[institutions]によって生み出されたイデオロギーで、その習慣とは競争の中で宗教を「ブランド」に変える効果を持つ一種の広告だ。ホワイトハウスはKivungのカーゴカルトの魅力的で短い解説を行った。Kivungはパプアニューギニアの端で、彼自身が人類学者として数年間ともに生活しながら研究した。問題:Kivungのカルトには奇妙な信念がある。彼らの神(死んだ祖先)が白人に変わって、みんなのためにハイテク技術とたくさんの物を持って戻ってくるという。これは彼らと一緒に暮らしているひとりぼっちの白人人類学者にとって問題だ。手元にはカメラがある。だからできるだけ目立たないようにした。

ウィルソンはアメリカのティーンエイジャーの大集団に対する彼のグループの新しい研究のかなり面白いデータを示した。ティーンエイジャーの半分がペンテコステ派で半分が聖公会だった(つまり、超保守と超リベラル)。分かったことは、多くの異なる自己評価のスケールで、その若者たちは生物学者を「別の種」であるかのように見なすほど大きく異なると言うことだ[finding that on many different scales of self-assessment, these young people are so different that they would look to a biologist like “different species.”]。

ルースは彼が無神論者だと宣言すると同時に、宗教を説明しようとする人が宗教信念は間違っているというところから始めないことを願うと言った。彼は帰無仮説や裁判の推定無罪を理解していないみたいだ。それから彼の人生と、彼が--無神論者として--カルバン主義の神を気に入っていることなどを少し学んだ。

-+-+-+-
これで終わり。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中