”社会生物学”に反対する

以下の文章は1975年11月13日にニューヨーク・ブックオブレビューに掲載された。エドワード・ウィルソンの『社会生物学』が序章と最終章で人間の行動の進化について述べたことに対して、16人の署名者がいくつかの社会的、政治的、科学的理由から非難した。いわゆる社会生物学論争の最初の一撃。今となっては遠い過去の議論になってしまったが、科学史の中ではそこそこ重要だと思うので訳してみた。原文はこちらウィルソンによる返答もついでに。
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125年前のダーウィンの自然選択の理論以来、新しい生物学的、遺伝的知識は社会的、政治的方針の進展に重要な役割を果たしてきた。「適者生存」の語を作り出したハーバート・スペンサーからコンラート・ローレンツ、ロバート・アードリー、そして今のE.O.ウィルソンまで、人間行動のほとんどの重要な特徴の第一要因は自然選択であると宣言されてきたことがわかる。これらの理論は人間の行動・社会の決定論的な視点にたどり着いた。この「生物学的決定論」は、遺伝理論とデータがある種の社会問題の原因を説明できるという主張にも見られる。例えば20世紀初めの優生学者ダヴェンポートは犯罪やアルコール中毒のような「異常な」行動は遺伝的な基盤を持つと主張した。より最近では知能の人種的な差異が遺伝的な原因を持つというアーサー・ジェンセンやウィリアム・ショックレーらの主張がある。

このような考えが登場する毎に、彼らは新しい科学的な知識に基づいたと主張した。そのたびに強い科学的な議論がそれらの理論の不合理を示しても彼らは死ななかった。これらの決定論理論の再発の理由は、彼らには社会階級、人種、性に基づくグループの既得特権と現状へ、遺伝に基づいた弁護を与える一貫した傾向があることだ。歴史的に、大国や支配グループはこれらの科学界の産物を用いて彼らの権力を維持し、拡張しようと努めてきた。例えばジョン・ロックフェラー卿はこういった。

大企業の成長は単なる適者生存だ…それは単に自然と神の法則が働いているだけだ。

これらの理論は1910年から1930年代にかけてのアメリカで、断種法の制定と制限的な移民法の制定、そしてまたナチスドイツでガス室の設置に繋がった優生政策の重要な基盤となった。これらのカビの生えた議論を復活させようとする最新の試みは、新しい分野の創造であると根拠無しに主張されている社会生物学である。今年の夏、我々はE.O.ウィルソンの本『社会生物学:新たな総合』の広告の波と賞賛のレビューに曝された(NYR,8月7日のC.H.ウォディントンのものなど)。賞賛にはニューヨーク・タイムズの一面記事の以下のような声明も含まれる。

社会生物学は、人間の他人に対する行動の多くも…手の構造や脳の大きさと同じように進化の産物であるかもしれないという革命的な含みを持っている。

このような広告は「世界の中の我々の位置を理解しようという試みのブレイクスルーの一歩手前にいる(NYR,6月27日)」というような断定に対して信用を与える。彼以前と同様、ウィルソンの”ブレイクスルー”は社会の科学的研究に厳格さと視野をもたらそうとする試みである。しかしウィルソンは以前の生物学的決定論者を反証不可能な仮説を作る「弁護的な方法(先入観を支持する事実を意図的に選んだ)」を用いたと告発することによって、自身と切り離そうとする。彼は豊富な新しい情報を用いてより強固な科学的アプローチを取ると主張する。我々はこの新情報は人間の行動とほとんど関係がないと考える。そしておそらく客観的、科学的アプローチは実際には政治的な仮定を隠し持っている。このように、”人間の本性”の不可避な結果であるとして現状の新たな弁護が提出された。人間の行動についての彼の推測を生物学的な核心に結び付ける試みにおいて、ウィルソンは論理的あるいは事実的な[人と動物の]連続性に対するいかなる主張も退けるいくつかの戦略と策謀を用いている。

社会生物学の27章のうち最初と最後の章だけが人間に関し、その間の25章は主に動物、特に昆虫に集中する。このようにウィルソンは「遺伝子の道徳性」と題された最初の章と、「社会生物学から社会学へ」と題された最終章の二つのコラム的生物学の間に500ページを置く。しかしウィルソンの客観性の主張は、最終章が先行する章の事実と理論から論理的・必然的に導かれる程度に完全に基づいている。

社会生物学の読者の多くが、これが本当であると納得させられるのではないかと我々はおそれる。しかしウィルソンの連続性の主張は次のような理由のために誤りである。

1) ウィルソンは行動や社会構造を”器官”-その高い適応価のために存在する遺伝子の表現である-とみなす。洗脳について話すとき、例えば彼は「人間は洗脳するのが理不尽に簡単だ」と主張する。したがって「従順遺伝子」が存在しなければならない。同様にウィルソンは「悪をもたらす遺伝子」について話し、人間が知的で[自然]選択的な利点を考慮できるので悪をなすと主張する。同様の議論は「同性愛遺伝子」や「創造性、起業家精神、運転や精神的スタミナ」の遺伝子についても当てはまる。しかしそのような遺伝子の存在の証拠はない。このようにウィルソンにとって存在する物は適応であり、適応である物はよい物であり、したがって存在するものはよい物だ。しかしウィルソンが社会問題のような現象と向かい合うことを要求されると、彼の説明的フレームワークは驚くほど融通が利く。そのような行動は不適応で、たんに進化することができなかったと言うような説明で気まぐれに却下される。つまりそのような社会問題は我々の道徳コードが古いからかも知れない。と言うのもウィルソンによれば我々は「狩猟採集社会のメンバー」と同じだけ単純な「定型化されたコード」によって動くからである。外国人嫌いは社会進化と足並みをそろえることに一致した過ちを代表している[Xenophobia represents a corresponding failure to keep pace with social evolution]。私たちの「グループ間の反応は…いまだに粗野で原始的だ」。

このアプローチはウィルソンが現代の行動を選別的に適応または「自然」だと認めることを許し、現在の社会秩序を正当化する。適応と不適応の定義の唯一のウィルソンの基礎は彼自身の選別だ。ウィルソンは「弁護的アプローチ」を拒絶し科学的客観性を要求すると同時に、彼自身の”人間の本性”への推測を強化する。すなわち多くの種類の人間行動が遺伝的に決定されているという、彼の証拠からは導かれない立場を。

2) ウィルソンのもう一つの戦略は”そうであるかも知れない”ことから「そうである」への信念のジャンプだ。例えば彼は人間以外の行動から人間の行動へ議論をなめらかに移行しようとするとき、二つを区別する要因:つまり文化に直面する。もちろんウィルソンはそれが問題だと知っている。彼はドブジャンスキーの「極端な環境主義の正統的な見解」を提示する。

文化は遺伝子を通して受け継がれない。それは他者から学ぶことによって獲得する…。ある意味で、人の遺伝子は人間の進化において全く新しい非生物学的、または超個体的エージェント、文化にその優位性を譲り渡した。

しかし彼は「正反対が正しいこともあり得た」と言って文章を終える。そして突然次の文章で「人類学的遺伝学の必要」を要求して正反対が真実になる。言い換えると我々は文化が遺伝子を通して受け継がれるプロセスを研究しなくてはならない。このように、読者にこの種のジャンプを求める遺伝的な説明はウィルソンの好みである。

3) ウィルソンの人間以外の行動の研究分析は、彼に人間行動の理解の基盤を与えられるか?進化理論に基づく”自然の連続性”への訴えは十分ではない。進化的な分析が動物行動の説明を提供する一方、動物の行動と人間の社会の間の理論的な関係を何も確立しない。しかしウィルソンは集めた動物の証拠を利用するために、その種の接続を必要とする。ウィルソンの動物と人間の行動を結び付けようとする巧妙な方法の一つは、動物社会の特徴を説明するために人間社会からのメタファーを用いることだ。例えば昆虫の個体群において描写的なフレームワークのために「奴隷」と「カースト」、「スペシャリスト」と「ゼネラリスト」といった伝統的な比喩を用いる。このように彼は人と動物社会のアナロジーを進めて、二つの行動パターンの間に同じ基盤があると信じ込ませようとする。そのうえ、奴隷制度のような制度は生物界で”普遍的”であるので、人間社会でも自然であると思い込ませようとする。しかしメタファーと前提とされているアナロジーは証拠の欠如を覆い隠すことができない。

4) ウィルソンが人間以外から人間の社会にジャンプするときに直面するもう一つの困難は、アドホックな議論だ。例えばウィルソンが協調する生得的生物学の中に大きな問題がある。もしグループ内の社会構造がほんの数世代で急速に変わるなら、遺伝要因はどのように行動をコントロールできるだろうか?ウィルソンはもちろん大きな柔軟性と人間の行動の急速な変化を否定しない。しかしウィルソンは、標準的な集団遺伝学によれば観察された変化にとってこの期間は短すぎると認める。彼はその代わりに経済学から借用した「乗数効果」を持ち出す。彼はこの効果を、どのようにして小さな遺伝的変化が限られた時間の中で非常に拡大されるかを示すために用いる。しかしこの乗数を持ち出すいかなる基盤も、ウィルソンは提示しない。ウィルソンの説明の重要な点は全く推論に基づくままだ。さらに彼は行動のための遺伝子が存在すると言う証明されていない仮定に依存する。

5) ウィルソンの”人間の本性”に関する主張のほとんどは、客観的な観察に基づいておらず(人間の行動の普遍性にも、動物の社会を通しても)、思弁的に再建された人間の先史時代に基づく。この再建は[男性は]狩猟をし、女性は家で子どもの世話をし子どもと野菜を集めるというような(「人間の性行動や家庭生活の詳細のほとんどはこのような基本的な分業から簡単にたどり着く」)領土主義のおなじみのテーマで、特に集団間の戦争と大量虐殺の長所を強調している。しかしこれらの議論はかつて起こり、歴史学的、人類学的な研究によって反駁された(A. Alland, The Human Imperative or M. F. A. Montagu, Man and Aggressionを参照せよ)。

我々に残されたものは科学的な証拠がない人間の本性に関する理論だ。そしてそれはE.O.ウィルソンが住む世界の社会秩序に極めて類似した世界観を守るものだ。我々は人間の行動に遺伝的な要素があることを否定しない。しかし人間の生物学的普遍性は戦争や、女性の性的搾取や、交換媒体としてお金を使うことのような非常に可変的な習慣よりも、食べる事や排泄、眠ることのような、より一般的な性質での中でより多く見つかるだろうと疑っている。ウィルソンの本が我々に示すのは環境の影響(例えば文化的な伝達)だけでなく、研究者個人の社会階級の偏見を切り離すことの莫大な困難さだ。ウィルソンは社会問題に対する責任から彼らを解放することで、その研究が社会制度の強化に役立った生物学的決定論者の長いパレードに加わる。

我々がそのような過去の理論の社会的政治的影響を鑑みて、強く反対しなければならないと感じる。それが人間行動の議論に科学的基盤を与えるからでなく、生物学的決定理論の新しい波を感じさせるために「社会生物学」を真剣に取り上げなければならない。

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著名な署名者は次の通り
医学生エリザベス・アレン[筆頭署名者] ブランダイス大学
医学者ジョナサン・ベックウィス、ハーバード大学
心理学者スティーブン・コローヴァー、MIT
生物学者デイヴィッド・カルヴァー、ノースウェスタン大学
生物学者スティーヴン・ジェイ・グールド、ハーバード大学
生物学者ルース・ハバード、ハーバード大学
人類学者アンソニー・リーズ、ボストン大学
生物学者リチャード・ルウォンティン、ハーバード大学
教師バーバラ・ベックウィス
他に医者・医学生など7名
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たいへんツッコミどころが多い批判だと思うが、しかし現在でも同様の批判を見かけることがある。

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コメント / トラックバック1件

  1. […] a Comment  http://www.nybooks.com/articles/9003 1975年12月11日にNYRに掲載された。批判の元の手紙はこちら。 -+-+-+- […]

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