科学と宗教に互換性はない:シーン・キャロル

ディスカバーマガジンの09/06/23のブログより。

筆者は物理学者シーン・キャロル。科学と宗教には互換性がない。それは科学者が宗教的でいられないとか、一方が常にあらゆる意味で間違っていると言うことを意味しないが、なぜ互換性がないのかを見つめることは重要だ。
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シカゴ大学の進化生物学者ジェリー・コインは『なぜ進化は事実なのか』と題した本を最近出版し、同じタイトルのブログを始めた。彼は科学/宗教論争において足どり強くやってきた。そして”調停主義”--宗教を信じる人がより心地よく進化や科学的アイディアを受容できるように科学支持者の一部が取るレトリカルな戦術--に対して強硬な姿勢を取る。ラッセル・ブラックフォードやその他がコインを支持する一方、クリス・ムーニーやその他はもう一方を支持する。そして大量のブログのポストがとびかった。

実際の調停主義の話題のいくつかを、そしてテンプルトン財団について何をするべきなのかを述べてみたい。しかしその前に一つ疑問がある。科学と宗教は実際に互換性があるか?明らかに、その疑問に対するその人のスタンスは調停主義に対する印象に影響をあたえる。それで私の印象はこうだ。

科学と宗教は互換性がない。しかしそれが何を意味するかの前に、それが何を意味しないかをまず述べないといけない。

まず最初に、科学と宗教は必然的、論理的、あるいはアプリオリに互換性がないことを意味しない。我々は互換性がないことを理由にあらゆる意味で互換性がないと宣言すべきではないが、一部の人はそうしたくなる。確かに科学は合理性と証拠に基づく一方、宗教が信仰に基づく(常に合理性と証拠が欠如しているわけではないが)。しかしそれはただその二つが異なることを意味するだけで、互換性がないことを意味しているわけではない。

飛行機は車とは違う。もしロサンゼルスからサンフランシスコへ行きたいときには、あなたは車か飛行機の(両方ではなく)どちらかを使う。あなたが車に乗り、あなたの友人が飛行機を使った場合、サンフランシスコまで行くのであれば、あなた方の旅は互換性がある。同様に科学と宗教が互換性を持つ別の宇宙を想像することは難しくない。宇宙の機能性についての宗教の主張を科学が定期的に確認するような世界だ。我々は簡単に証拠の収集と仮説検証という優れた科学的方法が、われわれに神の存在やその他の超自然現象も含めた自然の働きの理解を残してくれる世界を思い浮かべることができる(聖トマスアクィナスが生きていれば、現代の宗教的な人たちの多くのように疑うことなくそれに同意しただろう)。しかしそれは我々が生きている世界ではない(それは彼らが一致しない点だ)。

科学と宗教の非互換性は、人が信心深く且つ良い科学者でいられないと言うことを意味しない。そう主張することは愚かだし、もし誰かが「科学と宗教の非互換性」がそう言う意味だと主張したら、それはわら人形叩きだと考えて良いだろう。科学者個人が誤った信念を、たとえそれが科学についてであれ、持つことは全く問題ではない。宇宙の定常モデルを信じている科学者もいるし、HIVがエイズの原因ではないとか、太陽の黒点が気候変動の原因だと考えている科学者もいる。そのような立場を取る科学者がいると言う事実があっても、そのような主張がよい科学的理論になるわけではない。我々は正しいことにも間違っていることにも、議論のどちら側にも(特定の個人の信念にではなく)関心を持たなくてはならない(同様に科学と宗教に互換性があるなら何千もの無宗教の科学者の存在は全く重要でなくなるだろう)。科学と宗教に互換性がない理由は、現実の世界でそれらが別の結論に至るためだ。どんな公正な人にとっても、この非互換性は全く明白だと指摘する価値がある。異なる宗教は非常に異なる主張をするが、最終的に大体同じようなことを述べる。「神は宇宙を6日で創った」とか「イエスは死んだ後で生き返った」とか「モーセは海を割った」とか「魂はカルマに従って生まれ変わる」というように。科学はこう述べる:「それらはどれも事実ではない」。だから互換性がない。

しかし主張の表面的な妥当さは、それが真実であると確信するのに十分ではない。科学は確かに、我々が現実をいったん慎重に見るなら、それが非常に驚くべき物だと我々に教える。そして問題のより繊細な理解は、私たちの面前に広がっているようなものも説明できると私たちに納得させる。したがって互換主義者がどのように科学と宗教を正確に調和させようとしているのか、より注意を払わなくてはならない。

問題はそこだ。相対性理論や量子力学や進化のように直観に反した主張とは異なり(それらは我々にデータとの慎重な対決を要求する)、科学と宗教の互換性とは単にそれらの単語が意味するものについての主張だ。科学と宗教に互換性があると主張する人の好む方法は--本当に可能性がある唯一の方法は--誰もが認める「科学」や「宗教」のどちらか、しばしば両方の定義をひねって変えることだ。

もちろん「宗教」の一つの定義に同意することは難しい(そして「科学」もそうだ)ので、いつ有用さを越えて定義がねじ変えられたかを決めるのは慎重を要する。しかしそれは人間の試みであり、そして自分自身を信心深いと定義する人が実際に行っている習慣や信条を見つめることには意味がある。そしてそうするとき、我々は宗教が自然界について様々な種類の主張をしていることが分かる。イエスは死んだ後生き返った。このようなことを信じている何億もの人がいる。我々がその主張を作り上げたわけではない。宗教は常に自然に関する主張を行った。世界がどう創造されたか?から超自然の介入の重要さまで。そのような主張は宗教にとってしばしば非常に重要だ。もし私の言うことが信じられないならガリレオかジョルダーノ・ブルーノに訊いてみればよい。

ここ数世紀の科学の進歩はますます率直にそれらの誤りを示した。我々は今、自然界について2000年前に知っていたことよりも多くのことを知っている。死者が生き返ることはないと言うのに十分な知識がある。それに対して科学と宗教の互換性を宣言する一つの戦略は、従来理解されていた「宗教」にナイフを入れ、自然界に対する主張をそこから全て取り除くことだ。

その一つがスティーヴン・ジェイ・グールドによって提案された「重複する事なき教導権(NOMA)」だ。彼は「宗教の教導権」を次のように説明する。

この疑問は人生の価値と意味に関する道徳的問題に関わる。どちらも人のあり方とよりひろい解釈に関する。彼らの実り多い議論は異なる教導権の元で進められなければならない。その教導権は科学より遥かに古く(少なくとも公式化された探求としては)、コンセンサスの探求に打ち込んでいる。あるいは少なくとも自然界の物質的ないかなる事実:「である」の調査ではなく、倫理的な「べきである」に関する仮定と基準の説明である。この倫理的議論と意義の探求の教導権は、人文科学と分類されている伝統的な分野を含んでいる。例えば哲学の多くや文学、歴史学などである。しかし人間の社会は通常、この教導権の議論を「宗教」と呼ばれる習慣の中心に据えてきた…。

言い換えると、グールドが「宗教」と言うとき彼が意味していたのは倫理、あるいはおそらく道徳哲学だ。それは確かに我らが科学によって伝えられる自然界の理解と重複していない。しかしそれは歴史的に用いられてきた語として、あるいは今日の信者の大多数によって理解されている語としての「宗教」とは全く異なる。それらの人々は世界を創った超自然的な存在、人間の行いに猛烈に関心を持っており、ときおり奇跡として自然界に介入する神を信じている。繰り返す:私がこれを作ったわけではない。

もちろんあなたを止めるものはない。宗教と言うとき「道徳哲学」や「自然の全て」や「宇宙に驚嘆する感覚」を思い浮かべることができる。あなたは単語をあなたが望むように用いることができる。だがそれはあなたが議論している普通の言葉を話す人々を一貫して誤解させるだけである。

要点は何か?もしあなたが「宗教」という言葉で「倫理」を意味しているのなら、なぜ「倫理」と言わないのか?なぜほとんどの人がはっきりと神や奇跡や超自然と結び付ける意味をその主題と混同させるのか?

スティーヴン・ジェイ・グールドやAAASやその他は倫理と道徳哲学が科学と完全に互換性があるという声高な見解を主張したがる。誰もそれに異議を唱えていない。それを主張するのが興味深いと思える唯一の理由は、人が本当に伝統的な超自然の袋--その袋は空っぽではないが、間違っている--に含めたいと思うかどうかだ。

あなたが「宗教」と呼びたくなるような、しかし明白に超自然的ではない立場--宇宙の壮大さに対する畏怖、人々は互いに良くしなければならないという信念--に出会ったら誘惑に抵抗すべし!不必要な超自然的な含みを他人に伝えるよりも、あなたが実際に信じている物に正直で明白でいるべし。人間同士のコミュニケーションは劇的に改善されるだろうし、世界はより良くなるだろう。

他に好まれるやり方は、恐らく一般的ではないが、「科学」の意味に手を加えることだ。それは通常、非超自然的な無害な言葉売りを越えたいくつかの宗教的主張--「神は存在する」とか「イエスは生き返った」とか--を、科学がそれは真実でないと証明することはできないと指摘することで行われる。厳しく解釈すればそれは全く正しい。しかし科学がどのように働くかの劇的なほどの誤読である。科学は決して何も証明しない。科学は時空が歪曲しているとか、自然選択によって種が進化するとか、観測される宇宙が何億年もの古さを持っているということを証明しない。それは科学の行いではない。いくつかの理由で人々は「神は存在するか?」と言う疑問が他の問題とは完全に異なった科学的推論の基準を持っているかのように扱う。

科学がするのは仮説を提案し、それらを使って予測し、経験的な証拠を用いてそれらの予測を検証することだ。そして科学者はデータと比較して仮説がよりあり得そうかを判断する。トマス・クーンが述べたように、これらの判断を公式化するのは極めて難しい。科学哲学者はそのような判断がどうなされるかについて厳格な理解を持っていない。

しかしそれは厳格さにおいてもっとも厳しいレベルでの話である。ラフな概要では、手順はかなり明確だ。科学者はもちろんデータに合う仮説が好きだ。しかし彼らはその上、他の確立された考えに一致し、明白で、よく定義されており、範囲が広く、とりわけ単純であることが好きだ。仮説がより少ない入力に基づいて多くのことを説明できれば科学者はなおさら幸せだ。この手順は決して何も証明しない。しかし十分うまくいく仮説は代替の仮説よりももっともらしいと判断される。定常宇宙論、ラマルク的進化、フロギストン説は科学的に支持できない。

科学的な言い方をすれば、神の存在は支持できない仮説だ。それは定義不明だ。データとは完全に整合しない。それを加えても複雑な役に立たない説明の層が増えるだけで、理解が増すわけではない。だがそれはアプリオリな結果ではない。神仮説はかつては他の仮説よりも良くデータに合致したし、それを主張する宗教的な人はまだ尊敬を受けている。正確な喩えとして、定常宇宙論を信じている人は間違っていると挙げることができる。50年前定常宇宙論モデルは理に適った仮説だった。同様に、何千年も前、神は理に適った仮説だった。しかし我々の理解と我々のデータはそれ以来莫大なものとなった。そして神仮説は現実的なモデルではない。同じタイプの推論は奇跡やさまざまな創造神話やその他への信念にも用いることができる。

私は多くの思慮深い宗教的な人へ多大な尊敬を払う。何人かは私がこれまで会った中でもっとも知的な人々が含まれる。私が思慮深くて知的な物理学者の友人の数人が時間の矢あるいは量子力学の解釈を間違えていると思うのと全く同じ意味で、私はまさに彼らが間違っていると考える。それは私たちがすでに同意している問題について意見が一致しないということを意味しないし、市民的な議論の範囲で激しく討論した後に一緒に飲みに行けないということも意味しない。しかしこれらの問題は重要だ。彼らは人々の人生に影響を与える。頭にカバーを付けることを強制される女性から、結婚できない同性愛者、日曜にミネソタで車を買えない人々まで。宗教は全く個人の問題ではない。現実の根本的な性質についてのあなたの考えは必然的に他者の振る舞いに影響を与える。そしてその振る舞いは別の他者に影響を与える。だからこそ、それを正すことは重要だ。

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